岡崎競馬場の馬券(所蔵:岡崎市立中央図書館) きょう4月17日は徳川家康の命日。生誕の地で知られる愛知県岡崎市には、ゆかりの史跡が随所に残り、年間を通じて多くの観光客が訪れる。そんな岡崎にはかつて、もうひとつ人々を引き付ける場所があった。今から約70年前に消えた岡崎競馬場。すばらしい景観で、“東海一の好馬場”と評されたその存在をたどってみたい。
愛知県中央部に位置する岡崎市は、名古屋や豊田のベッドタウンで、約38万人が暮らしている。古くは城下町、東海道の宿場町としてもにぎわいを見せた。JR岡崎駅から東へ2km少々。ため池の長池、商業施設のウイングタウンがある辺りに競馬場は設けられていた。
開設されたのは1931年。農林省の方針により、県内各地に複数あった競馬場を県の北西部・尾張と東部・三河の2カ所に集約する中で誕生した。尾張は川中(現在の名古屋市北区)と稲永(同市港区)で揺れ、紆余曲折の末に後者で内定したが、三河でも豊橋と岡崎で激しい争奪戦に発展。当時の新聞『新愛知』(1931年3月16日発行)によれば、「豊橋市と内定していたが、岡崎市から金一万五千円を提供することで妥協が出来たらしい」とある。新年度の直前まで、熾烈な誘致合戦が繰り広げられたようだ。
こうして、31年10月9日に幕を開けた岡崎競馬場は活気づいた。当初は岡崎競馬場株式会社が運営し、34年から愛知県畜産連合組合、43年に愛知県畜産馬匹組合連合会へと移管。太平洋戦争終戦後の48年8月からは愛知県が母体となり、競馬法の下で開催を続けた。この間、数少ない娯楽の場として市民に親しまれ、四季を通じた景観の美しさから、東海一の好馬場として知られたという。だが、盛況は長く続かず、昭和中期に他の公営競技が発展し、名古屋競馬場や中京競馬場が開設されると売り上げが減少。53年10月をもって、20年あまりの歴史に幕を下ろした。
今の競馬場跡はどうなっているのか。現地は宅地化が急速に進み、かつて馬が駆けた場所には建物が立ち並ぶ。それでも実際に付近を歩いてみると、かすかに面影も感じられた。バックストレッチから3、4コーナーにかけて、競馬場に沿って伸びていた生活道路は今も健在。住宅地に突如現れる約400mの直線は、往年の姿を思わせる。1、2コーナー中間付近の外側にあった変形T字路もそのままだ。競馬場があったころは、岡崎駅から周辺まで多くのファンが歩いたのだろう。
周囲を一周してみると、アップダウンが激しく、徒歩ではなかなか苦労した。だが、道路に比べて馬場があった場所は、一段低くなっているところも多い。宅地造成にあたって盛り土をした痕跡も確認できたことから、コースの高低差は緩やかだったとも考えられる。跡地を訪れると、さまざまな想像が膨らんだ。
また、岡崎市立中央図書館には貴重な資料が残っている。それは当時の単勝式勝馬投票券(=写真)。昭和24年第2回2日目の開催で、第7競走の6号馬を買ったものと読める。今から約70年前、岡崎には確かに競馬場があったのだ。
家康公はかつて、「海道一の馬乗り」として名をはせたと聞く。卓越した乗馬技術を誇った初代将軍の没後、この地に馬にまつわる場所が造られたのは、偶然ではなく不思議な縁だったのかもしれない。
(取材・文:中川兼人)