
【連載】人生を変えた「恩師」を語る
From佐藤勇人toイビチャ・オシム(後編)
◆佐藤勇人・前編>>オシムとの出会い「挨拶を拒否。あの時はちょっとざわついた」
◆佐藤勇人・中編>>涙目のオシム「胴上げしようとしたら、めちゃくちゃキレられた」
2006年夏、日本サッカー界に激震が走った。イビチャ・オシム氏の日本代表監督就任。それはジェフユナイテッド市原・千葉にとって、精神的支柱を失うことを意味していた。
師の背中を追うように代表の門を叩いた佐藤勇人氏だったが、そこには過酷な試練と葛藤が待ち受けていた。「脱オシム」に揺れるクラブ、主将としての重圧、そしてケガとの戦い──。
苦難の時期を経て、佐藤氏が今、あらためて噛み締める「それでも人生は続く」という言葉。次世代へとつなぐべき「オシムの遺産」を語り尽くす。
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── 佐藤勇人さんは2006年、オシムさんが監督に就任した日本代表に選出されることになります。
「僕らのなかでは、そこがひとつのモチベーションになっていました。またオシムさんに会いたいし、まだオシムさんに教わりたいという気持ちがあったので、選ばれるしかないと思っていました」
── 実際に選ばれた時はどうでしたか。
「もちろんうれしかったですが、今でも思い出に残っているのが、初日に挨拶に行くじゃないですか。ほかのチームの選手も含めて挨拶をしにいったら、シッシッという感じで手を振るんですよ。お前らのことは知ってるから、来るなよって。しかも真顔ですからね。この人はあいかわらずだな、何も変わってないなって、僕らは笑うしかなかったですね」
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── 日本代表では兄・寿人さん(サンフレッチェ広島)と史上初の双子出場も経験しました。
「そうですね。ただ、僕はそこからが苦しかったんですよ。代表デビューして、日本代表のピッチに立ち続けて、自分の価値を上げたいと思うようになったんです。
それで次のシーズン、阿部(勇樹)が浦和レッズに移籍して、オシムさんの跡を継いだ息子のアマルさんからキャプテンに指名されたんです。阿部だけではなく坂本(將貴)さんもいなくなり、オシムさんを日本に連れてきた祖母井GMもチームを離れました。
それによってチーム作りに変化が起きて、オシム体制ではほとんどなかった他クラブからの移籍選手がけっこう入ったんです。そういう状況のなかで、自分がやらなくちゃいけないって追い込みすぎて、ケガを重ねてしまったんですよ。その結果、代表を3回も辞退する形になってしまった。
そこがキャリアにおける一番の後悔ですね。やっぱりあのタイミングで、僕にはまだキャプテンをやる余裕がなかった。それによって代表のピッチに立つ機会が失われてしまったことを考えると、すごく残念だったなって、今でも思っています」
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【「今日は勝つぞ」と言われたことはない】
── オシムさんや中心選手がいなくなったチームをまとめるのは大変でしたか。
「いろいろありましたからね。(イリアン・)ストヤノフがアマル監督とぶつかってチームを離れたり、オシムさんの時にはなかった問題が一気に起きてしまって。チームとして戦っているんですけど、あの時は一人ひとりの向いている方向がバラバラでしたね」
── オシムさんがいなくなると、多くのチームが苦境に陥る傾向があるそうですね。
「それだけ依存しちゃうんですよね。オシムさんはやっぱり教育者で、日本だとサッカーもそうですけど、答えがあるものを教えていくじゃないですか。でもオシムさんは、答えがないものを教えていくんです。
まず、やらせてみる。そこでうまくいかなかった時に、いくつかの選択肢を与えてくれる。そのなかから僕らは考えながら、判断して実行に移す。そこでようやく答えを見つけることができるんです。
つまり、答えの導き方がまったく違うんですよ。オシムさんがいるチームはそれが当たり前になっているのに、いなくなって違う監督が来ると、また答えがある状態で作られていく。だから、機能不全に陥るんだと思います」
── オシムさんの考えて走るサッカーの本質は、そこにあるわけですね。
「プロである以上、普通は勝つためにサッカーをする。勝つための準備をする。でも、オシムさんは、何のためにサッカーやっているのか、何のために今日のピッチに立つのか、その理由のほうを大事にしている監督でした。
『君たちは今日、この1万数千人のお客さんが何のために見に来てくれているのかっていうことを考えながらプレーしなさい』と言われたことがあります。勝つために準備をして、そのためだけに戦うのか、それともサッカーをプレーする意味を考えて、理解したうえで戦うのか。それだけで圧倒的に差が生まれると思うんですよね。
オシムさんから試合前やハーフタイムに、『今日は勝つぞ』と言われたことがありません。ただただプレーする意味を考えることを、常に求められていました」
【「脱・オシム」に納得がいかず】
── アカデミー育ちの勇人さんが2008年に移籍を決断したことも、オシムさんがいなくなったことが影響しているのでしょうか。
「そうですね。あまりにもオシムさんが偉大すぎたので、クラブがオシムさんから離れようというふうになったんですね。『脱・オシム』じゃないですけど。それに対して僕にオファーをくれたクラブ(京都サンガF.C.)が『オシムさんのようなサッカーをしたいので、ぜひ来てほしい』と。そっちのほうがやりがいがあると感じたので、移籍を決めました。
ただ正直、納得のいかなかった部分もありました。なんでオシムさんから離れる必要があるのかって。ヨーロッパのビッグクラブとかもそうじゃないですか。偉大な指導者の想いやカラーが継承されて、それが歴史になっていく。それをわざわざ手放す必要があるのかなって。そこはやっぱり納得いかなかったですよ」
── チームの中心選手として近くで見てきた勇人さんだけが知る、オシム監督の知られざるエピソードを教えてください。
「すでにいろんなところで話しているので、知られざるとまではいきませんが、オシムさんはあえてカオスを作るというか、僕ら日本人の固定観念を壊すことを、いろんなところでやっていましたね。
これはクラブスタッフから聞いた話ですが、オシムさんがコーチと一緒に市原のお店にご飯を食べに行った時に、焼きそばを頼んだんです。その時、お店の人に『麺と具を分けて出してくれ』と注文したらしいんですよ。
当然、お店の人はできませんと言うじゃないですか。そしたらオシムさんは『じゃあ、いくら払ったら麺と具を分けて出してくれるんだ?』って交渉したそうなんです。それでもお店の人はできませんと言って、結局普通の焼きそばが出てきたんですが、なぜオシムさんがそのようなことをしたかというと、別に意地悪でしたかったわけではないんですよ。
これは僕らにもいつも言っていたんですけど、『いつ何が起きるかわからない。今まではこうだったからといって、これからもそれが正しいと思わないほうがいい』って。つまりオシムさんは、固定観念を壊すことを飲食店のおばちゃんにも試したわけなんです」
【オシムさんが亡くなるはずがない】
── 常識を疑え、ということですね。
「オシムさんは『日本人は平和すぎる』とよく言っていました。やっぱり内戦を経験している方なので、本当にいつ何が起きるかわからないということを、身をもって感じているんでしょう。
その時に生き残っていくためには、日頃からいろんな準備をする必要があるんです。今日は平和でも、明日は何が起こるかわからない。それはサッカーにも通じる部分ですし、日常生活でも同じこと。だからオシムさんは常日頃から、僕ら選手だけではなく一般の方に対しても、いろんなことを試していましたね」
── 数々のオシム語録も心に響きました。勇人さんにとって一番の言葉を挙げるとすれば?
「それこそ有名な『ライオンに追われたウサギが肉離れをしますか』という言葉は、僕が肉離れをした時にそういう話をされたと思うんで、印象的に残っています。ただ、僕が今でもすごく大事にしているのは、『やったことが返ってくるのが人生というもの』という言葉です。
すぐに返ってくることもあれば、何年後かに返ってくることもあるでしょうけど、本当にそうだと思うんですよね。やるべきことをしっかりとやれば、返ってくるんです。それは自分の行動に責任を持つことにもつながると思います。その言葉を僕はすごく大事にしていて、次の世代の子どもたちにもよく伝えるようにしています」
── オシムさんが亡くなられて、もう4年が経ちました。訃報を聞いた時はどのような想いが込み上げてきましたか。
「あの時はちょうど、海外サッカーの解説の仕事が終わって家に帰っている時にネットのニュースで知ったんです。本当に信じられなかったですね。それこそ間瀬(秀一通訳)さんもそうですし、祖母井(秀隆GM)さんもそうですし、代表のスタッフとかみんなに連絡して、事実確認をしました。
なんでそういうことをしたかというと、亡くなる半年くらい前にオシムさんとビデオ通話で対談したんですよ。あの時に普通に話していたオシムさんが亡くなるはずがない、という想いが拭えなかったんですね」
【次の世代に伝えていく必要がある】
── 受け入れることができなかったと。
「そうですね。ただ、次の日にJリーグの解説があって、実況の方にその話題を振られたんですね。その時にパッと出たのが、『それでも人生は続く』っていう言葉だったんです。
これはある試合で負けて落ち込んでいる時、オシムさんに言われた言葉で、ロッカーに入ってきたオシムさんはサッカーの内容には一切触れず、『お前ら、それでも人生は続くぞ』って、そのひと言だけを言って帰っていったんです。それがすごく頭のなかに残っていたので、その言葉を言いました」
── 前を向いて進んでいくしかない、ということですね。
「はい。なので、僕はすぐに行動に移しました。オシムさんの追悼試合をやらないといけないと思い、クラブに話をして追悼試合を企画して開催しましたし、『JAPANIZE FOOTBALL』というプロジェクトを立ち上げて、オシムさんから学んだことを伝えていく取り組みもしています。
今の子どもたちは、イビチャ・オシムを知らない。でも、僕らがオシムさんに教わったことは、絶対に次の世代に伝えていく必要があると思っています」
── あらためて勇人さんにとって、オシムさんとはどういう存在でしたか。
「自分の人生のなかでは数年間しか関係性がなかったひとりの方ですけど、間違いなく僕が死ぬまで、オシムさんという人は心のなかで生き続けると思います。だから、いろんなところでオシムさんから学んだことを伝えていきたい。なぜなら、オシムさんが日本に伝えてくれたものは、本当にかけがえのないものですから」
<了>
【profile】
佐藤勇人(さとう・ゆうと)
1982年3月12日生まれ、埼玉県春日部市出身。ジェフユナイテッド市原(現・千葉)のジュニアユース、ユースを経て2000年にトップチーム昇格。イビチャ・オシム監督のもとでチームの黄金期を支え、2005年と2006年のナビスコカップ連覇に貢献。2006年に日本代表デビューを果たす。2008年に京都サンガF.C.へ移籍するも、2010年に「愛するクラブをJ1へ戻す」決意で千葉へ復帰。2019年に現役引退。現在はジェフユナイテッド千葉のクラブユナイテッドオフィサーを務める。国際Aマッチ1試合0得点。ポジション=MF。身長170cm。
