
ワールドカップが近づき、大会に関する報道も増えてきた。だがそれらの話題のほとんどはアメリカに関するもので、メキシコとカナダの話はあまり聞こえてこない。
今回のワールドカップはもともとアメリカのものだった。知らない人も多いかもしれないが、2018年にFIFAからワールドカップ2026の開催権を与えられたのはアメリカだった。しかし、出場国を32チームから48チームに拡大したため、アメリカはメキシコとカナダに開催の枠を提供した。試合の70%以上がアメリカで行なわれるのはそのためだ。
しかし、いずれにせよ3カ国共同開催の大会であることに変わりはない。そして現在、アメリカの置かれた状況は「順風満帆」とは言い難い。イランとの戦争は終わりが見えず、運営面、資金面で多くの問題を抱えている。では、日本が第2戦を行なうメキシコの状況はどうなのだろうか?
ワールドカップ2026の開幕戦、メキシコ対南アフリカ戦は、6月11日、メキシコシティの「アステカ・スタジアム」で行なわれる。この時、メキシコはある記録を打ち立てることになる。メキシコは史上初めて男子のワールドカップを3回開催した国となり(1970年、1986年、2026年)、「アステカ・スタジアム」は世界で唯一、ワールドカップの開幕戦を3回開催したスタジアムとなるのだ。
現在の「アステカ・スタジアム」は8万3000人の観客を収容し、今回は開幕戦を含めて5試合が開催される。かのディエゴ・マラドーナの「神の手ゴール」が生まれたのもこのスタジアムだ。
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ワールドカップに向けた改修工事を終え、ピッチも刷新され、こけら落としとして、4月19日、ブラジル対メキシコのレジェンドマッチが開催された。ロナウジーニョ、カカ、アドリアーノ、ラファ・マルケス、アンドレス・グアルダードをはじめ、両国のスター選手たちがピッチに立った。試合は3対2でメキシコが勝利を収め、ブラジルの得点は"皇帝"アドリアーノとカカが挙げた。
ただ、大会を目前に控えたメキシコの空気は平穏なものとは言えない。大小の問題が噴出している。
【巻き起こるデモ、インフラ整備の遅れ】
たとえば、メキシコシティ市内では物価が急騰しており、スタジアム周辺のホテルやレストランは価格を3倍に引き上げた。
「アステカ・スタジアム」に近いサンタ・ウルスラ・コアパ地区では、住民たちが1年以上前から毎週日曜日に集会を開き、ワールドカップに関連した新規施設の建設に抗議を続けている。たとえばスタジアムの敷地内には地域に水を供給する井戸があるのだが、井戸の衛生管理がきちんとされていないというのだ。メキシコのクラウディア・シェインバウム大統領は、解決策を求める住民に対し、まだ何も回答しておらず、住民は開幕戦当日にデモを行なうと公言している。
別のデモも予定されている。メキシコでは近年行方不明者が急増している。現在9万人が行方不明だとして届けが出されていて、2025年だけでも1万4000人が行方不明となった。その多くが組織犯罪に何らかの形で巻き込まれたものであると思われている。人権団体の「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」は、メキシコ政府の行方不明防止対策や犯罪者に対する罰則が不十分だと指摘している。
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これらの動きに対して、政府は「ワールドカップ期間中に抗議活動を行なう者は大きなリスクを負う」と警告しており、スタジアム周辺にはのべ12万人以上の警察官が配備される予定だ。
インフラの整備も遅れている。グアダラハラの「エスタディオ・アクロン」では、グループリーグの4試合が予定されているが、大会開幕まであと1カ月だというのに、市内のあちこちでまだ工事が続いている。空港とスタジアムを結ぶ公共交通システムの工事は、FIFAが最初に設定した4月26日の期限には間に合わず、現在は5月末が目標とされている。また、ワールドカップに向けて新たな高速道路などは建設されておらず、ラッシュ時の交通渋滞はかなり深刻な問題になると言われている。
しかし、こうした数々の問題がぶっ飛ぶような事件が起こってしまった。
2026年2月22日、メキシコ軍はグアダラハラがあるハリスコ州で、同国最大の麻薬カルテル「ハリスコ・ヌエバ・ヘネラシオン」のボス、エル・メンチョを殺害した。
【治安の状況は落ち着いたものの...】
カルテルの報復は素早かった。数十台の車が放火され、道路が封鎖され、メキシコ国内の20州で銃撃戦が起きた。ガソリンスタンドに火が放たれ、銃撃戦により空港が閉鎖され、飛行機が炎上した。ワールドカップで代表チームやサポーターが利用する空港が、暴力により3日間も閉鎖されたのだ。
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数日のうちに死者は70人に上り、人々は家から出られなくなり、オフィスや店や学校は閉鎖された。サッカーのリーグ戦も中断された。
行方不明になった親族を探す人々は捜索を断念せざるを得なかった。麻薬カルテルが支配する地域に入るには軍の保護が不可欠だったが、軍は市内の暴動の鎮圧に忙殺されていたからだ。4日間にわたりグアダラハラの路上に人影は見当たらず、町はゴーストタウンと化した。
現在、状況はだいぶ落ち着いたものの、カルテルの内部抗争なども起きており、何かをきっかけに大会期間中にまた暴動が起こらないとも限らない。メキシコ政府は有効な対策を見出せておらず、FIFAは「状況を注視する」と言うにとどまっている。
3月、シェインバウム大統領は、メキシコの連邦政府に元ブラジル代表のベベートらを招待し、ワールドカップのトロフィーを掲げて「外国人サポーターにとってメキシコは危険な国ではない」と宣言した。しかし、メキシコ人選手を起用しなかったことで、また別な批判を受けてしまった。
もっとも、メキシコの町がすべてこのような状況なわけではない。
たとえば、日本代表が大会前に事前合宿を行なうモンテレイでは事情が異なる。モンテレイはアメリカに最も近いメキシコの都市であり、ダラス、ヒューストン、アトランタ、ロサンゼルスから直行便も飛んでいる。
"エル・ヒガンテ・デ・アセロ(鋼鉄の巨人)"と呼ばれる「エスタディオBBVA」は、メキシコで最も美しいスタジアムのひとつ。ロンドンのエミレーツ・スタジアムやトッテナム・ホットスパー・スタジアムなどと同じ建築事務所によって設計された。スタンドの一部からは、この街のシンボルであるセロ・デ・ラ・シージャ山が見える。ここでは決勝トーナメントを含めて4試合が行なわれ、6月21日には日本がチュニジアと対戦する。
【もうひとつの開催国カナダは?】
大会期間の約40日間、観光名所のパルケ・フンディドーラではファンフェスタが開催され、200万人以上が訪れる見込みだ。ただ、メキシコで一番安全な町にも問題はある。通常なら1泊200ドル(約3万1000円)程度のクラスのホテルの価格が800ドル(約12万4000円)へと大幅に上昇しているのだ。これは日本のサポーターにとっても頭の痛い問題となるだろう。
ちなみに、もうひとつの開催国であるカナダの状況はメキシコとは大きく異なる。
カナダには未完成の工事も、暴力もない。トロントでは、市中心部にある「BMOフィールド」で6試合が開催される。よくカナダはサッカーに興味がないと言われるが、そんなことはない。トロントは世界で最も多文化な都市のひとつで、大会への熱気は高まっている。
それでも、種類のまったく違う問題は起きている。
たとえばバンクーバーでは、カナダ代表戦を含む7試合が行なわれるが、FIFAは舞台となるスタジアム「BCプレイス」の周辺2キロメートルを「美化区域」に設定した。そして「美化区域」のなかには、市内で最もホームレスが多いダウンタウンのイーストサイド地区が含まれていた。
今、市は彼らを追い出しにかかっているという。あるホームレスの男性は、地元紙『グローブ・アンド・メール』の記者に対し、「スタジアムから最低2キロは離れるよう言われた。ホームレスが立ち入れない区域を作っているのだ」と語っている。
また、この地区の貧しい人たちが滞在する格安ホテルは、大会中に閉鎖されることになり、そうすると約300人が住む場所を失う。「人権問題だ」と市議会で問題にもなっているが、いまだ具体的な対応策は決まっていない。
ワールドカップは世界的な祝祭だ。しかし開催国での現状からはそのワクワク感が感じられない。一部の国ではワールドカップのボイコット運動さえ起きており、いつものような高揚したムードは失われている。大会は6月11日に開幕する。
