
連載「40代現役アスリートの矜持」
前編:【ボクシング】近藤明広(全2回)
紆余曲折のキャリアを歩み、32歳のときに中量級のスーパーライト級で世界初挑戦。本場アメリカ・ニューヨークでの大勝負に敗れてもなお、あきらめずに夢をずっと追い続けてきた。
後楽園ホールでデビューしてから20年。41歳となったプロボクサーの近藤明広は、いまも毎日のようにジムでサンドバッグを叩いている。昨年、不惑を迎えて、そのチャレンジにもいよいよ区切りをつけるつもりだった。しかし、人生は何が起きるか分からない−−。
【日本での世界戦で区切りをつけるはずが......】
猛暑が落ち着き、秋の気配が漂い始めた頃だった。昨年10月、墨田区の静かな下町に溶け込む一力ジムに思わぬ試合のオファーが届いた。日本では馴染みのないヨーロッパを中心に活動するマイナー団体『GBC』の世界ウェルター級タイトルマッチと聞き、多少の戸惑いを覚えたものの、当時40歳の近藤はすぐに思い直した。
「ほかのボクサーでは、なかなか来ないチャンスだなって。これは自分にしかできない挑戦。幸せなことだなと思い、チャレンジしよう、と思いました」
海外のリングで戦ってきたことで知名度があったのだろう。2017年11月にニューヨークのバークレイズ・センターでIBF世界スーパーライト級王座決定戦に臨み、35歳を過ぎてからもカザフスタンでIBO世界スーパーライト級タイトルマッチ、ベルギーでIBFインターナショナル・スーパーライト級タイトルマッチを経験。そのいずれも判定で敗れているが、アマチュア時代から培った確かな技術を持ち、気持ちがにじみ出るボクサーファイターの戦いぶりは評価されていた。プロのリングで50戦以上のキャリアを誇る本人も「一戦も恥ずかしい試合はしていない」と胸を張る。ヨーロッパではクリーンなイメージもプラスに捉えられたようだ。
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「日本ではあまり言われないのですが、ドーピング検査で一度も引っかかったことがないのも大きかったようですね。(故意でなくても陽性反応が出ないように)普段から海外製のプロテインやサプリメントは摂らないようにしているので」
5月23日の試合を正式発表したのは2026年3月。ちょうど井上尚弥(大橋)と中谷潤人(M.T)の『世紀の一戦』へ向けた話題で持ち切りだった頃だ。ビッグスターに華やかなドラマがあるように、41歳のベテランにはベテランなりの濃厚なストーリーがある。
自身4度目の海外挑戦に至るまでの道のりは平坦ではなかった。30歳のときから連れ添う働き者の妻には隣で支えてもらっているが、何度も引退を促されてきた。家には10歳の長男を含め、3兄弟の息子たちもいる。
年齢を重ねれば、大きなケガのリスクも高まる。それに引き換え、金銭的な大きなリターンが望めるわけではない。世界王者クラスのスター選手でもない限り、ボクシングだけで生活していくのは難しいのが現実。近藤は現在、父と兄が営む産業廃棄物処理会社を手伝い、トラックのハンドルを握る。基本的に朝8時から夕方16時頃までは力仕事で汗を流した後、日が沈み始める時間帯からジムワークに励んでいる。苦労人はプロで54戦をこなしたゴツゴツした拳に視線を落とすと、しみじみ振り返った。
「理想は(2025年2月の)ベルギーの試合に勝って、世界ランクに入り、最後は日本で世界戦をすることでした。東洋太平洋(OPBF)、WBOアジア太平洋のベルトを獲っていたので目標は世界だけだったので。でも、その前に負けてしまって......。ラストは国内でのノンタイトル戦になるのかな、と思っていたんです。これまでずっと応援してきてくれた方たちの前で試合をして引退しよう、と。本当に次が最後だって。まあ、これは何度も言ってきたので、妻には『やめる、やめる詐欺だ』と言われていますけど(笑)」
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【理解者の妻も「話が違うでしょ!」】
2025年4月3日、笑顔の絶えない家族に囲まれるなか、健康な体で40歳の誕生日を迎えた。21歳からプロのリングで戦い続けながら、大きなダメージも負っていない。あらためて、家庭の幸せを噛みしめた2カ月後である。国内での引退試合ではなく、中国でWBAアジアスーパーライト級タイトルマッチが決まったのだ。前回のベルギーと同じように最高のシナリオを頭に描いた。ただ、今回こそはたとえ望んでいる結果が出なくても、中国の興行を含めて、残り2戦で引退する意思を固めた。
準備も順調に進み、試合まで残り1カ月に迫った時期だった。近藤は1年前を思い返し、手で右目を押さえて思わず苦笑する。
「練習中にやっちゃって......。網膜剥離でした。自分はずっと頑丈だと思っていたので、この僕でもなるんだなと思いました」
当然、試合はケガのために棄権。すぐに入院し、手術することになった。病院のドクターから説明を受けると、ボクシングを続けられる可能性は30%。1回目のオペで成功すれば、再びリングに上がれる。うまくいかないときは再びメスを入れ、引退するしかない。それでも、絶望はしていなかった。
「僕は"強運"の持ち主なので30%もあれば、大丈夫かな、と。診断を聞いたときも引退する選択肢はなかったですね。妻はこれでやめるものだと思い、安心していましたが、僕自身はケガを理由に辞めるのは絶対に嫌でした。網膜剥離に負けたみたいですから。好きでここまで続けてきたボクシングなので、やめるときも自分の意思で決めたいと思って」
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目に見えない、運を引き寄せる力があるのかもしれない。手術は無事に成功。病院は1週間で退院し、2週間後にはジョギングを開始した。現役を続行することを妻に伝えると、当たり前のように猛反対された。いつも最終的には許してくれる伴侶も『絶対にダメ。いい加減にしてくれ』と青筋を立てていた。
「毎日のように『やる』、『やらないで』の応酬が続いたのですが、ある時、妻に言われました。将来、『もっとやりたかった』、『やり残した』と言われると、私はぶちギレてしまう。やめてほしいのにずっとそばで支えてきた、私が報われないと。だったら、とことん、やりきってくれって」
気の強い妻が折れたのは、長年サポートしてくれている支援者、変わらず応援してくれるファンの前で最後に試合を見せるという話をしたからだ。人情味のある女房は「それが筋だよね」と理解を示してくれた。当初は近藤も、そのつもりでいたのだ。
人間万事塞翁が馬−−。プロ54戦目のリングは、東京から9000km離れたドイツの首都ベルリンだった。まさかの急展開に妻が語気を荒げたのも無理はない。
「話が違うでしょ!」
5月下旬、出発の前日まで産廃業の仕事をこなしていた近藤は侍魂を胸にトレーナーら数少ないスタッフ陣とともにカタールのドーハを経由し、ドイツへ旅立った。
後編につづく:「"負け"に負けなかったことは、人生の糧に」近藤明広が20年のプロボクサー生活を継続できた理由
●Profile
こんどう・あきひろ/1985年4月3日生まれ、埼玉県出身。白鷗大学足利高(栃木)3年時にはインターハイ・ライト級で準優勝を果たす。東洋大に進学後も競技を続けるが、2006年4月に中退してプロに転向。2007年12月に全日本ライト級新人王、2009年8月に日本ライト級王者となる。2014年に日東ジムから一力ジムに移籍。初の世界王座挑戦は2017年11月、アメリカ・ニューヨークでのIBF世界スーパーライト級王座決定戦(判定負け)。2022年には東洋太平洋スーパーライト級王座を奪取。その後も日本ボクシングコミッション(JBC)非公認の団体も含めて世界王座に3回挑戦した。これまでのプロ戦績は54戦37勝(21KO)14敗3分け。
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