小沢樹里さん2008年2月17日、埼玉県熊谷市で泥酔状態の男性が起こした、「熊谷9人死傷事故」。加害者が運転する車は、時速100キロ以上のスピードで対向車線にはみ出し、2台の車に次々と衝突した。
小沢樹里さん(45歳)は、この事故で夫の両親を奪われ、義弟と義妹も重傷を負った。「やっと温かい家庭を持てたと思った」――その矢先の悲劇で、夫婦の結婚式からわずか1年の出来事だった。
「刑事裁判が終わっても、事件はまだ終わっていない」
何度もそう思った。事件後をどう生きたか、小沢さんの胸の内を聞いた。
◆事件後も続く過酷な現実
小沢さんの手元に1冊のノートがある。被害者ノートだ。被害者ノートは、小沢さんがほかの遺族らとともに自身の経験から考案したもので、被害者目線に立った作り込みが徹底されている。
2008年の事故からずっと、小沢さんは考え続けたことがあった。つらい状況にいる犯罪被害者が、警察でも検察でも役所でも病院でも、同じ話をさせられる。「何度も同じ話をして、思い出させるのがつらい」。そんな夫のつぶやきが原点だった。被害者ノートの成立の背景には、犯罪被害者が置かれた特有の事情が多分に関係してくる。
「現在でもそうですが、当時はすべての犯罪被害者が持ち出しで活動をしていました。犯罪被害者は、近しい人を失った悲しみを抱えながら、何度も同じ話をさせられ、そのたびに思い出し、法廷でも闘い、日々の生活を回していかなければなりません。被害者ノートの存在によって、新しい被害者が生まれたときにその人の目線に立てるようにしたかったのです」
熊谷9人死傷事故は、泥酔状態で車を運転した男が、猛スピードで対向車にぶつかり、死傷させた事件。その凄惨さはもちろん、加害者に危険運転致死傷罪が適用され懲役16年が科せられただけでなく、同乗者にも危険運転致死傷ほう助罪が、飲食店には道路交通法違反(酒類提供)が、それぞれ適用されたことでも注目を集めた。
そもそも危険運転致死傷罪が施行された2001年以前は、飲酒運転によって悲惨な結果を招いたとしても、業務上過失致死罪を適用するしかなかった。同罪の法定刑は上限5年とされており、「飲酒運転に甘い」との批判が絶えなかった。
小沢さんの事件は、そうした時代と比較すれば、一歩前進した判決を勝ち得ているようにもみえる。だがいくら制度が整備されても、実生活が救われるわけではない。
◆見過ごされていた「高次脳機能障害」の苦悩
「事件後、私たち夫婦は、双子の義弟と義妹(当時21歳)と同居することにしました。一緒に暮らしていくうちに、どうも2人の様子が変であることに気がつきました。一例ですが、買ってきた豆腐を冷凍庫に入れてしまったり、リモコンが冷蔵庫に入っていたり……。理不尽に両親を失くす経験をした子たちですから、最初のほうは『事故のショックだろう』と考えていましたし、主人もそう言っていました」
だが2人は一向に日常生活をサポートなしに送れるには至らなかった。当時はまだ刑事裁判も終わっておらず、生活を回していくことの困難さに小沢さんはやきもきした。「様子が変だ」と心配する小沢さんと、「きっとショックを受けているだけだよ」と窘める夫で意見が食い違った。
「1年、1年半と時間が過ぎて、いよいよ本当におかしな状況だとわかりました。私たちの長男は事件当時4歳で、彼が小学生になった頃には、身の回りのことを義弟妹たちよりもできるようになっていたのです」
決定的だったのは義弟の言葉だ。事件の影響で脊髄損傷を負っていた彼は、体内に金属プレートを埋め込んでいた。定期検診で、その金属プレートが折れていることが判明。医師が「通常、違和感があるはずですが」と問いかけると、「確かに言われてみれば、金属音がします」と義弟は答えた。
この問答に強い違和感を覚えた小沢さんは、手を尽くして病院を調べた。双子はそれぞれ高次脳機能障害を患っていることがわかった。事件から1年半以上経過してやっとわかった事実だった。
「原因がわかったことでホッとした気持ちが強かったです。同時に申し訳なくも思いました。『事件からこんなに年月が経っているのに、気づいてあげられなかったんです』と看護師さんに漏らすと、『高次脳機能障害を持った方は、家族に1人いるだけでもたいへんなのに、2人も抱えていてたいへんだったでしょう』と言われました。当時、先の見えない裁判が心の負担になっていました。こうやって、連れて行くべき場所に家族を連れていけないのが事件なのだと感じました」
◆お腹の命を「モノ」扱いにされた過去
現在、小沢さんは、池袋暴走事故の被害者遺族である松永拓也さんなどを擁する「あいの会」の代表理事を務める。メディア露出の多い被害者遺族だ。そんな彼女に届く誹謗中傷のなかには「義理の両親を亡くしてあそこまで活動するなんて、偽物の被害者だ」という心ない言葉まであるという。
だが小沢さんが社会活動を行うのは、自身の過去の経験によるものだ。
「熊谷9人死傷事故の少し前、2007年8月に私は交通事故に遭いました。私が息子と一緒に乗る車が、後ろから追突されたんです。その事故で私は腹部を強打しました。当時、私は妊娠をしていて、それによって赤ちゃんは亡くなってしまったんです。その後、全身麻酔をして摘出しました。自動車の保険会社の方に言われたのは、『胎児は法律上、モノとして扱われるんです』ということでした。民事裁判の賠償の文脈だったと思います。そのとき、生命の対価ってなんなんだろう――そんなことを考えて虚しく感じました」
法律は冷淡に線引きをするが、お腹に宿った生命をモノで割り切れる日は永劫こない。やっと家族になれたのに……そんな後悔が義理であろうとあるまいと、故人を弔い続ける姿勢につながるのだろう。小沢さんは言う。
「社会には理不尽なことが多いけど、声を上げ続けることは大切だと思う。いずれ法律が変われば、声をあげられない人まで守ってくれる社会が作れるから」
◆ストーカー被害を契機に警察への不信が
鉄の意志で突き進める強い女性――小沢さんにそんなイメージを持つ人がいるかもしれない。だが過去を紐解けば、その誤解は霧散する。彼女の原体験は、社会に不信感を抱き続けたとて何の不思議もないほど過酷なものだ。
「19歳で交際し始め、20歳で別れた人から暴力を受けていました。だんだん行動がエスカレートしていき、男性から私の携帯電話に『居場所を教えないなら、おばあちゃんを殺す』とメールが来るようになり、本当に怖い日々を過ごしました。もちろん警察にも相談しましたが、当時は携帯電話のメールは物証にならないと突き返されてしまって……。一度、交番で相談したときは警察官が『俺が止めておくから、逃げていいよ』などと言ってくれましたが、それでも事件化には後ろ向きでした」
自宅は特定されているため、帰ればどんな目に遭うかわからない。そんな恐怖から、小沢さんは友人宅を転々とする日々を過ごした。あるとき、その当時交際していた男性の家に泊まった。朝、インターホンが鳴った。
「彼氏が出ると、元彼が立っていたのです。そして、間髪入れずに殴打されました。彼氏はその場に血を流して倒れ、救急車を呼ぶことになったのです」
だが警察はこの状況を報告しても、「人間、結構頑丈だから殴られても大事には至らないから」などと鷹揚に構え続けたという。潮目が変わったのは彼氏の怪我の具合が深刻であることがわかってからだ。
「彼氏は顎を砕かれていて、手術が必要なほど酷い状態でした。その事実がわかって、やっと警察も動いてくれたのです。私はその日、病院に帰れずに警察の事情聴取を受けました。その後も、事情聴取や現場立ち会いに何日間も通い、捜査のために呼び出されれば何度も同じ説明をしました。気がつけば2週間くらいはまともに寝ることができず、食べられないまま、長時間の事情聴取を受けていました」
◆当時は「被害者支援を知らなかった」
「そのなかで警察から言われた言葉に、『加害者はあなたをとても愛していると言っています』『初犯なので、大きな罪には問われないです』というものがありました。愛していれば、人を傷つけてよいのでしょうか――私の大切な家族も友人も、大きな恐怖感を抱えながら過ごさなければならなかったのです。19歳だった私は、誰に頼っていいかもわからず、警察官にすら“痴情のもつれ”で簡単に片付けられてしまいました。当時はストーカー規制法ができたばかりで、接見禁止命令も出されましたが、私はもちろん、家族も友人も、被害者支援があることを知らずに当時は過ごしたのです」
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犯罪被害者団体を運営し、さまざまな立場の人たちを束ねるリーダーシップ――表層的に捉えるなら、小沢さんは”強い女性”と言えなくもない。そういえば、インタビューの最初、彼女は「根本がお節介なんですよね」と笑った。
今ならその意味が、少しわかるようにも思う。傷を抱え、うずくまった経験があるから、同じ苦しみを持つ人の痛みに寄り添いやすい。そして直接知らなくても、社会のどこかにいるであろう被害者のために動くことができる。究極のお節介が、社会を変革していく。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki