
「一卵性母娘」と言われて
マミさんは母一人子一人で育った。マミさんが1歳のときに夫を亡くした母は、それ以来、マミさんを一人で懸命に育ててくれた。「だから大人になってからは、今度は私が母を楽させてあげる番だと思い、一緒に旅行したり食事をしたりと仲よくやってきました」
仲がよすぎる、一卵性母娘とやゆされたり心配されたりしたこともあった。マミさんもそのことに気付いていたが、「当時は母と仲がよくて何がいけないの」と思っていたという。20代後半でマミさんが転勤、それ以来、母とはほどよい距離を保てるようになった。33歳のときに3歳年下の男性と結婚した。
「母は同居したがっていましたが、当時、母は60歳になったばかり。パートもできれば続けた方が本人のためだと思ったので、私は近くに住むことを選択しました」
マミさんは子どもを望んだがなかなかできず、不妊治療に踏み切る。だが、先に音を上げたのは夫だった。
泣く泣く離婚に同意
「自然に任せよう、二人だけでもいいじゃないかという夫の言葉に安堵(あんど)したのですが、その1年後、夫から離婚したいと言われて。好きな人ができて子どもも生まれると。絶望的にもなったし自暴自棄にもなったけど、心が変わったのなら引き止められない。泣く泣く離婚に同意しました」そんな彼女を慰めてくれたのは母だった。自立したはずなのに、母と一緒にいるとやはり一番気持ちが楽で安定した。それ以来、ずっと二人で一緒に暮らしていた。
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口論も絶えなかった。だがマミさんが意見を言っても、母は「はいはい、あなたはいつもそうなのよね」と軽く受け流す。一向に大人扱いされなかった。
気付いたら様子がおかしかった
「私は家であまり夕飯を食べなくなりました。母の世話焼きがうるさかった。外で食べてくるからということが続き、週末もなるべく出掛けるようにしていました」母の様子がどこかおかしいと思ったのはマミさんが50歳になったころ。母は70代後半、もの忘れがひどくなっていた。台所をのぞくとなんだか汚れている。冷蔵庫の中は賞味期限切れのものがたまっていた。
「そのころは出張が多かったし、連休にはよく旅行をしていたんです。なるべく母と距離をとっていたかった。その数年前、母は軽い脳梗塞で倒れたんですが、1カ月ほどの入院で、大きな後遺症もなく退院したんです。でもその後、知らないうちに少しずつ認知症が進んでいたようです」
1度気付くと、いろいろなことが気になった。母はどうやらまともに食事も作っていなかったらしい。低栄養だと医師に指摘され、マミさんは母の分の昼のお弁当を作って出勤するようになった。
「残業も減らして、早めに帰って夕飯の支度をしました。母は洗濯はしても干し方が分からなくなっていた」
できる限り面倒をみたが、仕事との両立は時間的、体力的につらかった。マミさん自身、更年期と重なって体調不良が続いていた。
母の「呪いの言葉」に苦しめられて
「6年続いたところで私が倒れました。ケアマネさんにも諭されて、母を近くの施設に預けることにしたんです。施設に行くとき、母は『あたしはあなたに捨てられても、あなたのことしか考えていないから』と私を見つめました。これはもう呪いの言葉です」それからマミさんは、その言葉に苦しめられた。母のいない自宅で一人過ごすことが不安でたまらなかった。見かねたケアマネにカウンセリングを勧められたという。
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母と適度な距離を保っていたように思っていた時期でさえ、やはり母の心配をする「ふりをする」ことで自己満足を覚えていた。
「私が自分の生活を立て直すと同時に、母が施設に慣れたことで、ようやく母と娘の関係ができあがってきた気がします。私が大人になってからは仲よしの友達だったり、疑似夫婦だったりと、おかしな関係だったなと気付きました」
母はほぼ寝たきりになったが、今は以前より優しくできるし、娘として老いていく母を受け入れることができるようになったそうだ。
(文:亀山 早苗(フリーライター))

