南海ホークス最後の日「いってまいります…」 弱小球団が常勝軍団へと変わっていった/寺尾で候

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2026年08月04日 13:40  日刊スポーツ

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88年10月15日、南海の大阪球場最終戦を終え、場内1周してファンに別れを告げる杉浦監督(中央)ら

<寺尾で候>


南海ホークスが消える瞬間に立ち会った。老舗で、貧乏で、低迷した球団がお金持ちに売られていく。1988年10月15日。大阪球場。激動の“昭和”が大詰めになった秋晴れの日、ナニワの名門に終止符が打たれた。


「さよならホークス」と銘打たれた一戦。4日後に西武と球史に残る「10・19」の名勝負を迎える近鉄バファローズを相手に6対4の勝利。セレモニーで最後に挨拶したのは、南海を支えたスター監督の杉浦忠だった。


行きつけのスナックでは、マラカスを鳴らしてはしゃぎ、飲んで、歌った。上京する新幹線で番記者を食堂車に招き入れ、窓際に小瓶のウイスキーボトルをズラッと並べた。こちらは東京に到着する頃にはヘベレケだが“球界の紳士”はシャンとしていた。


大阪球場内のレストランの洋食ランチは美味しかった。800円。選手からも人気だったが、でも食券は500円までしか使えないので、あとの300円は自腹だった。今振り返れば、のどかなチームだった。


大阪球場の左翼席上段には水島新司が手がけた人気漫画「あぶさん」の広告板があった。拙者が球場に駆けつけた水島にサイン色紙を差し出すと、主人公・景浦安武の絵に「どこへいっても野球は、野球」と書き添えてくれた。


ラストデーは、内外野席が無料開放されて超満員に膨れ上がったが、中に入りきらず人があふれた。閑古鳥が鳴いたスタンドに慣れた営業関係者は「いつもこれぐらい入ったら身売りせんでよかったのに」と目をうるませた。


ファンを前に杉浦は、立教大の親友を引き合いに「長嶋君が引退するときに『巨人軍は永久に不滅です』と語りましたが、(南海)ホークスは不滅です」といった後「さよなら」と言葉をつむぐことはしなかった。


「いってまいります…」


監督通算勝利が歴代最多を誇った鶴岡一人が、いつもNHKブース左端で古巣を見守る姿は印象的だった。「親分」と慕われた男は「まだなくなるような気がせんのや。できることなら一刻も早く、この球場を取り壊してほしい。その方が…」というと詰まった。


黄金期は木塚忠助、飯田徳治、岡本伊三美らで“百万ドルの内野陣”が築かれた。広瀬叔功、野村克也、皆川睦雄ら球界を代表するプレーヤーがそろった。阪神日本一監督・吉田義男から「甲子園よりも南海−西鉄のほうがお客さんが入ったんです」と聞かされた。


かつて関西では南海、近鉄、阪急、阪神の私鉄が球団を保有した。赤字続きの南海だったが、名物オーナー川勝伝が「おれの目が黒いうちは絶対に売らない」と突っ張った。それでも松下電器(現パナソニック)、京セラ、ワコールなど売却先が浮かんでは消えたが、ついに力尽きる。


関西国際空港の開港に伴い、大阪球場はナンバ再開発構想の目玉だった。また球団創立50周年の節目に後ろ盾だった川勝が死去する。経理財務出身の吉村茂夫が社長に就任。メインバンクのS銀行が仲介し、一気にかじは切られた。


ロッテと濃密な交渉を続けたダイエーが、南海買収に乗り換えたのは、なにも成功する算段があったわけではない。あえていうならダイエー企業戦士の商才だろう。ダイエーは鈴木達郎、南海は道本隆美が窓口になって話をまとめるのだった。


「さよならホークス」では、40歳で44本塁打、125打点の2冠を手中に収めた門田博光が泣いた。「こんな形で男が泣くのはつらい。ファンになにも返すことができなかった」。そう言い残すと、ひっそりと故・川勝の自宅を訪れて霊前に向き合った。


南海は裕福な家庭に引き取られた。流通王の異名をとったダイエーの総帥、中内功と玄界灘をクルージングしたときのこと。カリスマ経営者は海から埋め立て地のほうを指さした。


「あそこに世界一の球場を建てるんや」


それが後の福岡ドーム完成だった。南海ホークスが去っていく濃密な1日から長い年月が流れた。弱小球団がダイエー、ソフトバンクと見違えるような常勝軍団に変わっていったストーリーにはノスタルジーを感じずにはいられない。(敬称略)

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