画像はイメージですX(旧Twitter)に投稿された一本の動画が、静かな波紋を広げた。深夜の路上で、男が抵抗する女を無理やりタクシーの後部座席へ押し込む。運転席のドライバーは特に制止する様子もなく、二人を乗せたまま車を発進させた……。動画を見た人々からは、「事件ではないのか」「なぜ止めなかったのか」といった疑問や批判の声が相次いだ。
この映像だけを見れば、ドライバーに対して「見て見ぬふりをしていた」と感じる人も少なくないだろう。しかし実際には、後部座席のドアが開いてから発進するまでの時間は数秒程度しかない。その短い時間の中で、ドライバーが把握できる情報は極めて限られている。二人が恋人同士の口論の延長なのか、それとも誘拐や暴行といった犯罪なのかを、その場で確実に見極めることは容易ではない。十分な判断材料がないまま、ドライバーは瞬時の判断を迫られるのである。ドライバーは、困った乗客や厄介な乗客に遭遇した際、限られた情報の中でどのような判断を下しているのか。筆者自身の現場経験を交えながら、その実態を見ていきたい。
◆簡単にはできない乗車拒否
タクシーには、原則として乗車拒否が認められていない。道路運送法では、正当な理由なく乗客の利用を断ることを禁じているためだ。
冒頭のように後部座席で何かもめている二人組を目の前にしても、「なんとなく危なそうだから」という理由だけで乗車を断ることは難しい。それが本当に犯罪につながる状況なのか、それとも口論や痴話喧嘩なのかは、ドア越しに一瞬見ただけでは判断できないからだ。むしろ、状況を誤って介入すれば、ドライバー自身がトラブルに巻き込まれる危険もある。
一方で、乗車を断ることが認められるケースもある。泥酔によって車内を汚す恐れがある場合や、暴力行為・器物破損に及んでいる場合、危険物を所持している場合などは、正当な拒否理由となる。ただし、重要なのは「明確な危険の兆候」があるかどうかだ。印象や勘だけで判断できるものではない。
だからこそ、冒頭の動画のような「危険なのか、そうではないのかが分からない場面」こそ、ドライバーにとって最も判断の難しい瞬間になる。
◆酔客が豹変する恐怖にどう向き合うか
深夜、繁華街のタクシー乗り場。乗り込んできた瞬間はごく普通の酔客に見えた。ところが走り出して数分後、突然声を荒らげ、ろれつの回らない口調で「もっと飛ばせ」「お前、わざと遠回りしてるだろ」と絡み始めたかと思えば、次の瞬間には理由もなく運転席のシートを後ろから蹴り上げた。
こうした場合、ドライバーは、まず車を安全な路肩に完全に停止させ、エンジンをかけたまま「危ないので、やめていただけませんか」と淡々と告げる。感情的に言い返さず、同じ目線に立つと喧嘩両成敗となってしまうため、できる限り辛抱強く対応する。コンビニや交番の近くなど安全が確保できる場所を選んで停車するが、どうしようもない時は110番通報だ。
一番怖いのは酔った客ではなく、「自分が酔っている自覚のない客」である。本人は冗談半分でも、運転席への一蹴りや大声での威圧が重大事故の引き金になることもある。楽しい酒席の締めくくりを台無しにしないためにも、タクシーに乗ったら「自分の命を預けている」意識を少し持つことが、お互いにとって安全な帰宅につながる。
◆SOSに気づいた際の最適解は…
深夜、一組の男女が乗り込んできたとする。男性は慣れた様子で行き先を告げたが、女性は終始うつむいたまま、一言も口を開かなかった。ルームミラー越しに見ると、袖口からのぞく腕にはアザにも見える跡がある。しかし、この時点で「事件だ」と決めつけることはできない。アザは転倒によるものかもしれないし、二人は口論の最中なのかもしれない。思い込みで介入すれば、かえって状況を悪化させる恐れもある。
経験を積んだドライバーほど、まずは観察を優先する。バックミラーで二人の様子を確認しながら、信号待ちなど自然なタイミングでさりげなく声をかけ、女性が自由に反応できる状態なのかを見極める。視線の動きや表情、返事の有無など、わずかな変化も重要な判断材料になる。
もし、女性が助けを求める意思を明確に示したり、犯罪を強く疑わせる状況が確認できたりすれば、安全を確保したうえで110番通報や営業所への連絡など、状況に応じた対応を取ることになる。一方で、最後まで決定的な異変は確認できず、そのまま目的地へ到着するケースも少なくない。
だからといって、そのまま忘れるわけではない。乗車時刻や降車場所、乗客の特徴を記録し、必要に応じてドライブレコーダーの映像を保存しておく。後日、警察から照会があった際、捜査の手がかりとなる可能性があるからだ。ドライバーに求められるのは、憶測だけで動くことでも、見て見ぬふりをすることでもない。限られた情報の中で冷静に状況を見極め、安全を最優先にしながら、その瞬間に取り得る最善の判断を積み重ねることである。
◆巧妙化する乗り逃げの手口
高額な乗り逃げがたびたびニュースになっている。運賃が数万円単位に膨らんだ末、目的地に着くなり客が走り去るという事件が報じられるたび、業界内では「またか」という空気が流れる。実際の現場で最も多いパターンは、客が「今、手持ちがないので家に取りに行くか、近くのコンビニで下ろしてくる」と申し出るケースだ。ここで律儀にそのまま行かせてしまうと、戻ってこないケースもある。
こうした事態を見越して、多くのドライバーは「では、こちらのバッグや上着、スマートフォンなどを置いてもらってもよろしいですか」と、人質ならぬ担保として何か物を置いていってもらう習慣を身につけている。ところが最近は、この対策自体を見越した用意周到な乗り逃げ犯もいるそうだ。あらかじめ足がつかない、失っても惜しくない安物のバッグや使い古しの上着を担保用に用意しておき、それを置いて悠々と姿を消すのだ。
「お金を取りに行く」と言われた時点で怪しいと感じたら、その場で警察に連絡し、戻ってくるまで立ち会ってもらう対応を取るドライバーも増えている。もっとも、常習的な乗り逃げ犯は、そのあたりの機微を熟知している。狙うのは、数千円程度の運賃だ。ドライバーが「この程度なら」と泣き寝入りしやすい金額を見極める。「この金額なら通報するより営業を続けた方が早い」という心理を突いてくる。現場では、防ぐ側と逃げる側の知恵比べが、今も続いている。
◆凡事徹底こそが安全の近道
ドライバーは警察官でも警備員でもない。安易に介入すれば、自らの身を危険にさらすだけでなく、状況を誤認して無関係な乗客とのトラブルを招く可能性もある。だからこそ、現場で培われてきたのは、「観察し、記録し、必要に応じて通報する」という、一見地味だが実効性のある対応である。
ドライブレコーダーの映像は、自身を守る重要な証拠となる。異変を感じた際には、無線やチャットで営業所や仲間に状況を伝え、必要であれば乗客に気づかれないよう、信号待ちや降車後のわずかな時間を利用して110番通報を行うこともある。また、その場で見聞きした内容をできる限り正確に記憶し、後から警察へ説明できるよう備えておくことも重要な仕事だ。
冒頭の動画のあの数十秒の車内で、ドライバーが何を見て、何を考えていたのかは映像だけでは分からない。声をかけなかったことが判断の放棄だったのか、それとも乗客を刺激しないための冷静な判断だったのかを、第三者が断定することもできない。
タクシーの運転席は、乗客の人生の断片が否応なく流れ込んでくる場所である。その多くは表に語られることなく過ぎていくが、いざという時に備え、目を配り、状況を記憶し、冷静な判断を積み重ねている。今回の動画が多くの人に違和感を与えたのは、それだけ「もし事件だったら」という不安を抱かせる内容だったからだろう。そして同時に、限られた情報しか持たないドライバーが、どこまで介入すべきなのかという難しい課題を改めて問いかけている。
<取材・文/二階堂運人>
【二階堂運人】
物流ライター。ライター業の傍らタクシードライバーとして東京23区内を走り回り、さまざまな人との出会いの中から、世の中の動向や世間のつぶやきなど情報収集し発信する。また、最大手宅配会社に長年宅配ドライバーとして勤務した経験とネットワークを活かし、大手経済誌のWEB版などで宅配関連の記事も執筆する。タクシー・宅配業界の現場視点から、「物」・「人」・「運ぶ」・「届ける」をそれぞれハード(荷物・人)だけではなく、ソフト(心と気持ち)の面を中心に記事を執筆中。ブログ「二階堂運人ホームページ」