
木村和司伝説〜プロ第1号の本性
連載◆第31回:佐々木則夫評(5)
JSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車、Jリーグ発足後の横浜マリノス(現横浜F・マリノス)で活躍し、日本代表の攻撃の柱としても輝かしい実績を残してきた木村和司氏。ここでは、そんな稀代のプレーヤーにスポットを当て、その秀逸さ、知られざる素顔に迫っていく――。
帝京高校時代は、夏の全国高校総体で優勝。冬の全国高校サッカー選手権大会ではベスト4と、常に同年代のトップレベルで覇を競ってきた佐々木則夫のもとには、高校卒業に際し、JSL(日本リーグ)のチームから獲得オファーが届いたという。
「僕、日産自動車とか、古河電工とかから誘いがあったんですけど、『大学へ行きたいので、また4年後よろしくお願いします』って断っていたんですよね」
ところが、明治大卒業が目前になってみると、4年前には自身を誘ってくれた日産からオファーがあったのは、同級生の木村和司だけ。「"和司争奪戦"は、もうすごかったですから」と、佐々木は当時をそう振り返る。
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「あのとき、和司は大学生で日本代表になっていたんだから、それはもう、どこも欲しかったでしょう。彼がダントツでサッカーの才能を持っているのはわかっていたし、それは当然のことでした」
だが、佐々木自身も「もしかすると、いぶし銀的なポジションで(入れるかもしれない)」という気持ちが、まったくなかったわけでもない。
そこで、日産の強化担当者には帝京のOBもいたため、高校卒業のときと同様、自分を誘ってはくれないのかと尋ねてみるも、「和司とセットみたいな感じだったら、入れそうな雰囲気だった」とは、佐々木の記憶。
「帝京の先輩と飲みに行かせてもらったときに、そういう空気を出されたので、『ふざけんなよ』と。それだけは嫌だった」
佐々木にしても、引く手あまただった4年前を思えば、当然悔しさはあった。しかし同時に、「大学ではたいした試合をやってないですからね」というあきらめの気持ちがあったことも確かだった。
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「オレはもう、いいかな」
佐々木は大学卒業を機に、選手としては事実上区切りをつけ、「仕事に専念しようと、手堅いところを選んだんです」。
堅実に仕事をすると決断した佐々木が、就職先として選んだのは、日本電信電話公社(現NTT)だった。
「僕は、(選手とは)違う道でサッカーに関わろう、と。どちらかというと、次は指導者の道に行こうかなっていうのもあったんです。
(日産に入った)和司はその後、プロになったけど、我々なんかがサッカーでプロなんて考えられない。仕事ができて、サッカーの指導者になれる、みたいな感じでしか、その後のイメージができなかったんですよ。だから、実直に仕事をしっかりできて、サッカーにも関わるっていうところで(電電公社に)エントリーしたんですけどね」
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その言葉どおり、電電公社で働きながら、電電関東(のちのNTT関東。現RB大宮アルディージャ)のサッカー部に籍を置いていた佐々木は、民営化されてNTTとなった会社を退職したのち、指導者としてプロになった。
それからの佐々木の活躍ぶりは、今さら説明するまでもないだろう。
2007年末になでしこジャパン、すなわち日本女子代表の監督になり、翌年から指揮を執ると、2011年女子ワールドカップで世界制覇。同年度のFIFA女子世界年間最優秀監督にも選ばれたあとも、2012年ロンドンオリンピック銀メダル、2015年女子ワールドカップ準優勝と、輝かしい成績を残している。
大学時代、木村に才能の違いを見せつけられた佐々木は、しかし、自らが進む道を正しく見極め、それによって数々の成功を収めたのである。
懐かしそうにサラリーマン時代を振り返る佐々木が、当時の貴重なエピソードを明かす。
「電電公社に勤めて数年した頃、現場の営業をやりたいって言ったら、料金回収をやることになったんですよ。電話料金を払わない人を追っかける、っていうやつです。料金の取り立ては昼に行っても、だいたいの人は家にいないでしょ? だから夜、帰ってくるところをトライするんです」
当時の佐々木は、電電関東サッカー部で選手も続けており、「午後3時に仕事を上がって、練習もしていたんです」。
だが、毎日練習があるわけではない。「練習がない日に"自分の持ち番"の家を回って」未納分を回収に行くのだが、何度か顔を出すうち、「僕が取りに行かないと払わない、みたいな感じになるお客さんもいてね」と佐々木。
ある晩、馴染みの客のもとを訪ねると、「お茶、飲んでけよ。今、サッカーの日本代表の試合やってるぞ」と、家に招き入れられた。
佐々木の記憶によれば、「確か、27、28歳のとき」だというから、もう40年ほど前の話である。当の佐々木もそれが何の試合だったのか、まったく記憶に残ってはいない。
しかし、時折テレビに大きく映し出される背番号10を指さし、「これ、僕の同級生ですよ。大学4年間、一緒にサッカーやっていたんです」と、佐々木は客にそんな話をしたことをよく覚えている。
「同級生は日本代表で、おまえは電話料金の取り立てか。全然違うな」
客にはそう言って笑われた。
ふたりが、すでに異なる道を歩んでいたことは間違いない。だがしかし、同級生は確かにその夜、客との交流にひと役買ってくれたのである。
(文中敬称略/つづく)
木村和司(きむら・かずし)
1958年7月19日生まれ。広島県出身。広島工業高→明治大を経て、1981年にJSL(日本サッカーリーグ)の日産自動車(横浜F・マリノスの前身)入り。チームの主軸として数々のタイトル獲得に貢献した。その間、日本代表でも「10番」を背負って活躍。1985年のメキシコW杯予選における韓国戦で決めたFKは今なお"伝説"として語り継がれている。横浜マリノスの一員としてJリーグでもプレー。1994年シーズンをもって現役を引退した。引退後は解説者、指導者として奔走。日本フットサル代表(2001年)、横浜F・マリノス(2010年〜2011年)の指揮官も務めた。国際Aマッチ出場54試合26得点。
佐々木則夫(ささき・のりお)
1958年5月24日生まれ。山形県出身。帝京高、明治大を経て、大学卒業後に電電公社に入社。大宮アルディージャの前身となる電電関東(のちにNTT関東)でプレー。現役引退後、1996年からNTT関東(のちに大宮)の監督を務めた。2006年からなでしこジャパンのコーチ、U−17女子代表監督に就任。2007年からU−20女子代表の監督となり、翌年からはなでしこジャパンを指揮。2011年女子ワールドカップでは日本を世界の頂点に導いた。その後、2012年ロンドン五輪でも銀メダル、2015年女子ワールドカップでも準優勝という成績を収めた。現在は日本サッカー協会女子ナショナルチームダイレクターを務めている。
