【高校野球】「甲子園は行きたいから行ける場所ではない」 全国制覇から33年、母校・育英を率いる安田聖寛が待つ"聖地からの迎え"

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2026年08月19日 10:01  webスポルティーバ

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深紅の大優勝旗から33年〜育英、復活への挑戦(後編)

 1993年8月23日。兵庫の伝統校である育英は、夏の甲子園大会決勝で春日部共栄(埼玉)と対峙した。地元・兵庫の代表として臨んだ決勝。聖地のスタンドは、8割以上が育英を応援するホームの空気に包まれていた。当時の主将で、現在は母校の監督を務める安田聖寛が大一番を回顧する。

【決勝戦で襲ったまさかのアクシデント】

「前日まではリラックスしていたと思います。ただ、グラウンドに水が撒かれ、ラインが引かれたあたりから、絶対に兵庫へ優勝旗を持ち帰らなければならないという、ある種の使命感のようなものがありましたね。兵庫対埼玉のプライドのぶつかり合いだと捉えていました」

 初回、育英は好スタートを切り2点を先制する。しかし、その後は春日部共栄の2年生左腕・土肥義弘(元西武など)の粘り強い投球の前に追加点を奪えず、じわじわと追い上げられる展開となった。

「初回に2点を取りましたが、ここで3点目が取れたと思うんです。最高のスタートなのですが、あと1点が取れなかったことを、選手たちが引きずっている感じはありました」

 安田がアクシデントに見舞われたのは5回表、同点に追いつかれた直後の二死一、三塁の場面だ。一塁走者が盗塁を試み、二塁手としてベースカバーに入った際に左膝付近をスパイクされてしまう。

「タッチアウトにしてチェンジになり、ベンチに帰ろうとして立ち上がろうとしたら立てませんでした。脚を見て、『絶対に無理だ』と直感しました。ユニフォームは破れていないのに、中の皮膚がざっくりと裂けて血があふれ出ていたんです」

 救護室に運ばれたが、傷口は深く、緊急でテーピングを巻く応急処置が施された。周囲からは交代を勧められたが、主将としての執念がそれを拒んだ。

「次の回、僕から始まる打順だったんです。『とにかく出ます』と言って、痛み止めを飲み、バッターボックスに立ちました。効くわけがないんですけどね(笑)」

 そんな状態で満足のいく打撃ができるはずがない。なんとか打球を前に飛ばすことはできたが、一塁まで走ることすらできずにそのまま途中交代。すぐさま救急車で近くの病院へと搬送された。試合経過を伝えるラジオの音声が響く処置室で、麻酔すら打たず、傷口を3針縫う処置を受けた。

「傷口を縫うことよりも、ラジオのほうが気になって、『俺がおらんくて、ちゃんとやってるかな』とソワソワしていました。処置が終わるとすぐタクシーに飛び乗り、球場へ戻りました」

【全国制覇の先に選んだ明治大】

 8回裏、育英の攻撃中に、痛みすらも忘れてベンチに帰還。脚は曲がらない状態だったが、主将の姿にベンチは大いに盛り上がった。勢いを取り戻したチームは勝ち越しに成功。そのまま3対2で逃げきり、初の甲子園優勝を果たした。その後は宿舎ではなく、病院に戻り、5針を追加した。

 安田がマークした「1大会10四死球」は、夏の甲子園の最多タイ記録となっている。「フォア・ザ・チーム」を体現した結果、夢にまで見た深紅の優勝旗を手にすることができたのだ。

「本当に漫画みたいですよね。試合後の表彰式で、優勝旗を受け取る時は踏ん張れず、倒れそうになりました(笑)。でも、仲間と一緒につかんだあの瞬間の光景は、生涯忘れることはありません」

 卒業後は社会人に進む予定だったが、高校日本代表で同僚となった山根雅仁(元広島)や金子誠(元日本ハム)らのレベルの高さに刺激を受け、東京六大学リーグの明治大学進学を希望するようになる。日下篤監督から「おまえごときが行っても4年間草むしり。明治のレベルをなめたらあかんぞ」とまで言われたが、安田の意志は固かった。

「ありがたいことに高校で負けずに引退させてもらったからこそ、試合に出ることができなくてもいいので、とんでもない世界を見たかったんです。そういう形で明治さんを受験させていただき、進学することになりました」

 伝統の「人間力野球」を掲げる明治大学での日々は、厳しくも充実していた。寮生活での礼儀作法、上級生が背中を見せる伝統は評判どおりで、周囲のレベルも、同級生の川上憲伸(元中日)らを筆頭に高かった。それでもあきらめずに努力を重ね、最後のシーズンとなる4年秋のリーグ戦でスタメンの座をつかんだ。

「通算で10試合ほど出させてもらいましたが、打率なんて1割程度(19打数3安打、打率.158)ですよ。でも、腐らずにやり続けた結果、最後の最後にチャンスが回ってきた。今、指導している生徒たちにも『あきらめなければ、いつかチャンスが"迎え"に来てくれる』と実体験として伝えています」

【29歳で指導者の道へ】

 大学卒業後は、社会人野球のデュプロ(2008年休部)に入社。日本生命や大阪ガス、松下電器(現・パナソニック)、NTT西日本といった強豪がひしめく関西地区で、泥臭く立ち向かう精神を養った。自身は補強選手として2度の都市対抗を経験。6年間の現役生活を終えた後は、29歳の若さで同部のコーチに就任。指導者としての第一歩を踏み出した。

 ただ、社会人チームの指導者生活はわずか1年で幕を閉じることになる。2006年、新シーズンに向けて準備を始めていたその時、本社の社長に呼ばれた。福岡六大学リーグに所属する第一経済大学(現・日本経済大学)の監督就任を勧められたのだ。

「最初は高校時代の恩師からお話をいただいたのですが、デュプロとしても新シーズンへ動き始めていましたし、もちろん、コーチとして不満もなかったので、最初はお話だけ聞いてお断りしようとしました。ただ、社長が『大学が必要としてくれているのだったら行ってこい。やってみて、またこっちに戻ってきたいということであれば、また俺が雇ったるから』と背中を押され、2月末から福岡へ行きました」

 ここから、安田は指導者としても強烈な勝負運を発揮する。右も左も、そして部員の名前や特徴もよくわからないまま、就任1カ月後に開幕したリーグ戦で指揮を執り、なんと初優勝へと導いたのだ。

「主将もそうですが、とくにマネージャーと『この子はどんな選手? どんなタイプ?』っていうのをすごく話し合って戦いましたね。万年5、6位のチームやったんですけど、あれこれやりくりして、学生も頑張ってくれました」

 その後、2008年夏から系列校である福岡第一高の監督となり、3年ほどが経った頃、育英の理事長から連絡があった。

「理事長から『おまえも高校で監督をやっているんだったら母校に戻ってこいよ』というお話をいただきました。福岡第一もたくさんのOBの方がいらっしゃいますから、きっちりと土台ができたら引き渡そうと考えていました」

【甲子園は行きたいから行ける場所ではない】

 そして2012年、部長として母校の育英に戻り、同年夏の大会終了後、監督に就任した。久しぶりに袖を通す「IKUEI」のユニフォームに「身が引き締まる思いでした」と当時を振り返る。

 甲子園出場は、春は2005年、そして夏は今季限りで現役を引退する栗山巧(西武、当時2年)らを擁して4強入りした2000年が最後。そこから遠ざかる母校で目指したのは、かつて自身が叩き込まれた「基本の徹底」と「相手を思いやる野球」だった。

「高校時代に、日下監督からキャッチボールを徹底してやらされました。キャッチボールは、『あなたのことが好きだから、取りやすいボールを投げてあげたい』というのが基本だと思うんです。『自分を見てくれ』という"アイラブミー"ではなく、いかに相手を思いやるスローイングができるか。それは生活面でも相手の気持ちに気づけるかどうかにつながっています」

 兵庫県の高校野球は、報徳学園や東洋大姫路、神戸国際大付など私学勢が強豪として名を連ねる一方、今夏の決勝は社(やしろ)対明石商の公立勢対決と、どこが勝ってもおかしくはない。育英は2回戦で今春の近畿王者・報徳学園に3対5と惜敗。甲子園に出場するには、技術以上に「品格」が必要だと安田は考えている。

「全国の高校球児に『甲子園に行きたいか?』と聞けば、100%行きたいと答えるでしょう。でも、甲子園に2回出させてもらった経験から言えるのは、甲子園は行きたいから行ける場所ではないということです。チームの品格、立ち居振る舞い、野球に対する姿勢、そういったものがすべて整った時に、甲子園のほうから迎えに来てくれるものだと思っています」

 母校を率いて15年目。指揮官の目指す場所にブレはない。

「今の目標は、まず秋の近畿大会に出場して、来春の選抜に出場すること。毎年甲子園に顔を出せるような土台をつくって、次にバトンをつなげていきたいですね」

 かつて自身が受け継いだ育英の誇りを次の世代へ──。再び甲子園が迎えに来てくれるその日まで、安田は目の前の1球と誠実に向き合い続ける。

文中敬称略

内田勝治●文 text by Katsuharu Uchida

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