映画『ちいかわ』を"完全初見"の作家が考察 労働者の悲哀? 実存主義? 福島原発に辺野古、生成AI問題も?

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2026年08月27日 07:20  週プレNEWS

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主要キャラクターのハチワレ(前列左)、ちいかわ(前列中央)、うさぎ(前列右)と今作で登場するセイレーン(後列)


主要キャラクターのハチワレ(前列左)、ちいかわ(前列中央)、うさぎ(前列右)と今作で登場するセイレーン(後列)


興行収入100億円を突破した『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』。公開から1ヵ月、"完全初見"のノンフィクション作家・前川仁之氏が「大人のための考察」を試みる!

*  *  *

【『ちいかわ』の大人な世界】

『ちいかわ』を映画で初めて見るという方は、原作を見て予習するより、ボーヴォワールの傑作『人はすべて死す』を読んできたほうが、理解が深まるかもしれない。その意味で映画『ちいかわ』は実存主義の系譜に置けるだろう。

まずはあらすじを。ある日、鳥が海を渡ってきて、ちいかわたちに求人チラシを届ける。そこには、島にきて簡単な「討伐」をするだけで豪華な報酬がもらえる、といったことが書かれている。

この「島合宿」に張り切って参加するちいかわと仲間たち。ところが、着いた島は怪物セイレーンにおびやかされていた。セイレーンは仲間の人魚を1匹、島民の誰かに食べられてしまい、怒っているのだ。ちいかわたちは力を合わせてセイレーンと戦う――。

注目すべきは、全編通して最初に発せられるセリフである。作中世界では、人語を話すキャラ(ハチワレやシーサー、ラッコ先生など)と話さないキャラ(ちいかわやうさぎなど)が共存しており、ハチワレがちいかわにかける次の言葉が最初のセリフとなる。

「今日もおつかれさま!」

うーん、実に日本社会的、大人的ではないか。しかも、ちいかわは、帰宅後には資格取得を目指して勉強するらしい。かわいらしい姿とは裏腹に、こいつらみんな、現代人と大差ない経済活動に従事する労働者であるようだ。

ものの3分もしないうちに予備知識ゼロの観客(私)にも世界観がつかめた。そこに「島合宿」の求人チラシが舞い込むという展開で、万国の労働者の心はわしづかみだ。

実は私も10年以上前に、〈民家の使用状況を調査するお仕事です。ビジネスホテルに滞在し、土日は休みなので秋の高原を満喫できますよ!〉などと書かれた求人広告を見て栃木県北部におもむき、原発事故にともなう除染のための放射線量調査に従事した経験がある。あれはあれで「討伐」だったなあと、感情移入がいっそうはかどる。

また、物語の主軸はセイレーン退治だが、単純な勧善懲悪ものではない。ちいかわたちは島民とセイレーン、双方の言い分や情に触れている。仲間うちでいちばん、もっともらしいことを言いたがるハチワレが、「ほんとに正しいのでしょうか、討伐するのが」と迷うくらいだ。

戦闘の時でさえ、双方の間で歌と踊りを介した共振が生じることも。こうした世界観とストーリーが、大人でも、いや大人こそ楽しめる深みを作品にもたらしているのだ。

【島が象徴するもの】

タイトルには「人魚の島」とあるが、セイレーンたちはもともとこの島にいたわけではないらしい。ある日どこからかやってきて、「味がこゆくて脂っこい島の料理が気に入って」住みついてしまったそうだ(島二郎・談)。味にかんするこの表現が、沖縄料理に寄せられがちな偏見含みの評とぴたり重なる点は、ルーツの半分を向こうに持つ私としては捨ておけない。

また、本作のセイレーンも本家セイレーンと同様に歌声を武器とするが、実はこの恐怖の歌声、以前は島の作物の成長を促す恵みを島民にもたらしていたのだった。それを聞いたハチワレの「だから、あんなに特産品が豪華なのか!」という納得の弁は、現代日本のある種の「地方と中央」の関係を想起させる。

これらの事情が明らかになるのに続いて、ハチワレの「守ろう、この島を!」というまんま市民運動的なセリフがあり、最後の戦いが始まるのだが、その直前、島の全景が水平角で映し出される。

このショットに大注目! 木々の緑に、垂直と水平の線をつくる岩山群の白の並び。白色と直線性が強調されたその姿は、なんらかのテクノロジーに奉仕する巨大施設を連想させるだろう。ちなみに私には、海から見た福島原発の写真にそっくりに見えた。

【「永遠のいのち」の価値とは】

テクノロジー信奉への疑義を示唆する要素はほかにもある。作中では、人魚の肉を食べると「永遠のいのち」が得られることになっている。では永遠のいのちはよいものだろうか?

本作ではその負の面をこそ強調して描いている。セイレーンは人魚殺しの犯人を見つけたら、「檻(おり)に入れて、なんかずっと暗いところ」に閉じ込め、永遠の責め苦にあわせようと企(たくら)んでいるのだ。

ここにきて人魚殺しの挿話がプロメテウスの神話につながる。火(テクノロジーの象徴)を盗んできて人類に与えたプロメテウスは、山の上にしばりつけられ、毎日毎日鳥に肝臓を食い荒らされるという罰を受ける。彼は元来不死身なので、苦しみ続ける。 

セイレーンが犯人に科そうとしている罰もこれと同じこと。逆に言えば、永遠の責め苦をもって報われるべき人魚殺しの犯人は、島のプロメテウスであり、過剰なテクノロジーの簒奪者(さんだつしゃ)なのだ。

これ以上はネタバレになるので秘す。人魚の肉を食べた者がどんな変化を被るか、どんな感情を抱くのか。本作随一の泣かせどころをぜひ見届けていただきたい。

【「いただきます」を忘れずに】

哀(かな)しい物語だが、希望はいたるところにちりばめられている。たとえばシーサーがかわいすぎるのである。いや、かわいいのも大事だが、真の希望は「食」にある。モモンガを筆頭に、みんな食べるのが大好きで、登場する料理の数々が食欲をそそるのだ。

彼ら(私も)が肉食を続ける以上、食は命をいただく殺生にもなる。本作ではそれを、いわば業として受け入れる。なにしろ人魚の殺害場面では、うまそうに湯気を立てる赤肉の「煮つけ」に料理されるところまで見せられるのだ。そして、映画を締めくくるセリフは「帰ったらなに食べようか?」なのだ。

食欲礼賛がなぜ希望なのか。それは厳密には、生きてみればわかるというだけの話なのだが、物語に即して野暮な解説を試みると、食が「永遠のいのち」というまやかしの希望に鋭く対立する営みだからである。現代世界で「永遠のいのち」にもっとも近い存在である生成AIを見よ。味についてのうんちくめいた言葉をいくらでも生成できるAIは、島ラッキョウの一本たりとも味わうことはできないのである。

食とはつまるところ、有限なる肉体と肉体との、存在をかけた触れ合いだ。無限やら永遠やらとは水と油なのだ。もうそろそろ、食とも死とも縁のないものに、人間を合わせるのはやめにしないか。映画『ちいかわ』にみなぎる食欲はそう誘いかけ、いずれ死すべき私たちを励ましてくれるのである。

【セイレーンの故郷は今】

最後に、劇中では解明されていないひとつの謎に、私なりの回答を与えておこう。セイレーンたちはいったいどこからきたのか?である。

南方熊楠(みなかた・くまぐす)が『人魚の話』で述べているように、世界中に数ある人魚伝説の起源はジュゴンとマナティからなるカイギュウ目であろう。セイレーンに由来するSireniaという目名のこの哺乳類は、熊楠の文献調査によれば、「肉味ははなはだ旨く柔らかな由」で、現在は絶滅危惧種だ。

マナティは大西洋側に分布しているので、日本語圏(!)の『ちいかわ』の「島」まできたセイレーンたちのモデルはジュゴンであろう。準備はできた。では「ジュゴンの見える丘」と検索してみよう。

今、日本でいちばん、政治的な都合によっていじめられている海が出てくるだろう。セイレーンたちはそこに住めなくなって逃げてきたのだ。抗議の意とともに筆をおく。

取材・文/前川仁之

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