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血液の病気の患者・家族への情報提供活動を行ってきた、NPO法人「血液情報広場・つばさ」理事長の橋本明子さんが、2025年度の日本造血・免疫細胞療法学会「造血細胞移植功労賞」を受賞した。
日本骨髄バンク設立に尽力し、長年にわたる患者や医療関係者に情報交換の場を提供してきた、などの功績によるもので、橋本さんは非医療従事者としての受賞となった。
「患者や医療関係の人たちに情報交換の場を提供することによって、今後も『医療文化』の向上に少しでも貢献したいと考えています」
と語った橋本さんの活動は、1986年、長男の知(さとる)さんが、10歳で慢性骨髄性白血病と診断されたことに始まる。
■病名を聞いてもまったくわからなかった
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「元気いっぱいだった知が、7月ごろから『疲れたなあ』とよく口にするようになりました。大好きなプールでも『寒い』とあまり泳がない。それまでいつも食欲旺盛だったのになんだか食が進まない、夏風邪かな……、と思いました」(橋本明子さん、以下同)
病院で検査を受けた。診断結果は慢性骨髄性白血病だった。
白血病は少しイメージできても、そこに「慢性」が付く意味も含めてまったくわからなかったという。
「今のようにネットのない時代ですから、一般人が医療情報に接するには限界がありました。私が手にできたのはせいぜい『家庭の医学』でした」
医師からは「息子さんの病気は骨髄移植をすれば治癒する可能性がありますが、移植をしなければ、3〜5年で残念な転帰をたどる、というのが現在の医学的見通しです」と宣告された。
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「骨髄移植をするためには、健康なドナー(提供者)と患者の白血球の型(HLA)が一致する必要があります。両親である私と夫もすぐに検査を受けましたが、息子のHLA型とは一致しませんでした。
ただ、きょうだいで一致する確率は25%。4人に1人が適合します。家族の期待を一身に受けて妹は検査を受けてくれましたが、残念ながらHLA型は一致しませんでした」
近年、骨髄移植への医療技術が上がり、親から子への移植は成功裡に行われるようになったが、当時の医学ではそれが限界だった。
「『お兄ちゃんを移植で治してあげられなかったのはHLA型が一致しなかった私のせいだ』と泣きじゃくる娘を見たときは本当につらかったです。HLA型の検査の結果ドナーになれず、娘の心に傷を負わせてしまいました」
でもね、と橋本さんは付け加える。
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「娘の存在は、ドナーにはなれなかったけれど、本当に大切。それは今もです」
橋本さんは「息子にはなんでも好きなことをさせてあげたい」という思いと「死への準備をしてはならない」というせめぎあいのなかで、しばらくは絶望的な日々を過ごす。
「何とかして息子を助ける方法はないものか。そんなときに、『アメリカのような骨髄バンクがあれば……』と主治医の先生がおっしゃったのです。そうだ、日本にも骨髄バンクがあれば、知も助かるかもしれない。大きな希望となりました」
それからの橋本さんの行動は速かった。息子を助けたいという一心で、まずは友人たちに懸命に協力を求めていった。
アメリカで始まっていた骨髄バンクをモデルに、全国的な骨髄バンクの設立に向けて奔走した。
1987年10月、「骨髄バンクの早期実現を進める会」を発足。1988年2月のシンポジウムを皮切りに全国運動を展開、署名活動を始めた。
1989年、議員請願署名約77万筆を国会に提出。これが大きな力となり、1990年、当時の竹下登首相は国会答弁で「前向きに検討する」という答弁をもって骨髄バンクの必要性を認めた。
■「よくやったんじゃない? ごくろうさま」
この活動と並行して橋本さんは知さんを連れて渡米し、NMDP(全米骨髄バンク)に患者登録する。しかし適合者は見つからなかった。
「通院しながらの投薬は10歳から14歳まで続きました。『お母さん、どのくらい病院に通えば治るの?』と聞く知に、あと5年よ、がんばろう。あどけない顔で質問する息子になんの約束にもならない返事をする自分に胸が痛みました」
そしてついに投薬だけでは症状が抑えられなくなる日が来た。
「白血球が激しく増え、体中に内出血によるあざができてきました。いよいよ入院して治療を始めることになり、初めて知は自分の病名を知ることになります。
つらい治療になることを医師から告げられると『つらいとか、痛いとかには負けないよ。それより僕は受験が心配なんだ』。知は、自分の人生が終わるとは考えていなかった。高校受験という未来に目が向いていたのです。
今まで本当の病名を隠していてごめんねと謝ると、『おれ、知ってたけどね』。これは意外な答えでした」
そんなとき、1990年の国会答弁から2年近くたってようやく悲願の骨髄移植推進財団が設立。骨髄バンクが実質的にスタートする。
「骨髄バンク設立が新聞各紙で報じられた1991年12月、その1紙を持って無菌室にいた知に『骨髄バンクができたから、もうお母さんは出張とかで出かけないからね、ずっと知のそばにいられるよ。これまで留守ばかりして、ごめんね』と報告がてら謝りました。
そうしたら知は、新聞は見ずにちょっと私を見て、私の頭をなでてくれました。『ま、よくやったんじゃない?ごくろうさま』と」
この時期に、病状の進行を遅らせるために、自家骨髄移植(患者自身の造血幹細胞を採取・保存し、化学療法後に体内へ戻す治療法)に踏み切るが、1992年2月、高校の受験票を枕元に残し、知さんは旅立った。骨髄バンクがスタートしてから、3カ月後。15歳と7カ月だった。
「すべてこの世の用事は済んでしまった。知の後を追って逝きたい。そんな虚無感でいっぱいになり、1年くらい立ち直れませんでした」
生きる気力を失った日々のなかで知さんと過ごした時間が頭をよぎる。
「病気になるずっと前のことですが、知が『お母さん僕が死んだら悲しい?』と聞いてきたのです。本の中にでも子供が死ぬ話があったんですかね。ちょっと母の愛を確かめたかったのかな。
私は、『知くん、子供は母の心臓なのよ。心臓がなくなったら生きていけないでしょう。だから子供は死んじゃいけないの』。そのときの知はとてもうれしそうでした」
家族旅行の楽しい思い出も……。
「まだ本格的な治療が始まる前に、オーストラリアに家族旅行にいきました。食いしん坊の知は大好きなステーキをおなかいっぱい食べ、妹は念願のコアラを抱きしめました。オペラハウスで家族全員でシンフォニーも聴きました。片言の英語で現地の人と話したり、とても楽しかった」
■必要な情報が足りていないことに気づいた
悲しみの間からよい思い出も浮かんでくるようなったころ。
「少し心に余裕ができたとき、私にとって、骨髄バンク(知の命)の次に必要なものは何だろうと思いました」
病名、治療法、HLAのこと……。慢性骨髄性白血病以外の血液の病気は何があるか、費用のことなど必要な情報が足りていないことに気づいた。そして、同じように感じている人のために、情報を提供する場を作りたいと思った。
「骨髄移植は一般治療と事情が異なり、第三者であるドナーがいなければ成り立ちません。
金銭も名誉も関係ない善意の非血縁ドナー(家族ドナー以外)たちが骨髄移植を支えています。現在、非血縁骨髄移植は年間約1200例実施され、その数は安定的に推移しています」
医療の進歩で、治療法も多岐にわたるようになった。
「知のタイプの白血病は2001年からは投薬で治せるようになりました。しかし薬は毎日、基本的に生涯、飲まなくてはならないので、医療費が膨大になります」
そこで、橋本さんは2010年に医療費を援助する、つばさ支援基金を立ち上げた。
この4月には、血液がん患者の治療環境の向上に向けた要望書『造血細胞療法CAR-T(カーティ)療法の均てん化に協力』を岡山県知事と県議会に提出した。CAR-T療法の先進県である岡山県から、まずは均てん化(地域や条件による格差の解消)の波を広げたいと願ったものだ。
「ドナーがいない、都市部に住んでいない、お金がない、適切な治療法の情報が届かなかった、などの理由で希望的な治療に届かない患者さんがあってはならないといつも思っています。医療に差別があってはならない」
一時は命を絶つことまで考えた橋本さんを奮い立たせるものは、生きようとして受験票を枕元に置いていた知さんの存在そのものだ。
橋本さんにとって、知さんのいちばんの思い出は? と聞くと、
「私は今も変わらず知の母親として生きていますから、いちばんとか特別な、は何もありません。もう一度生まれ変わっても、また知の母になりたい。15年間の生活はとても楽しかった。知が私の子供であったことに心から感謝しています」
15歳で亡くなった知くんのために、橋本さんは今も医療文化向上の活動を続けている。
【PROFILE】
はしもと・あきこ
NPO法人「血液情報広場・つばさ」理事長、日本骨髄バンク理事。1986年に長男が白血病に罹患したことを機に、骨髄バンク設立運動を開始。1994年に前身団体を設立し、現在は血液がん患者や家族に向けた情報提供のセミナー開催、患者への経済支援などの活動に尽力している。
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