
<寺尾で候>
日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。
◇ ◇ ◇
高校野球の歴史を支えてきた古豪浪商(現大体大浪商)が創部100周年を迎えたのは2年前の24年(令6)。初冬に開催された記念式典には、泉下の人になったOB張本勲がメッセージを寄せている。
「皆さん、こんにちは、張本勲です」で始まった文言は「この記念すべき節目にあっぱれ!」と会場をなごませ、高校野球を経験した思い出をかみしめるかのように言葉を紡いでいる。
|
|
|
|
「高校野球で培われた『最後まであきらめない』という強い精神や、『仲間を信じ抜く心』は、私の人生における礎となり、今でも強く胸に刻まれています。浪商高校野球部が100年という歴史を積み重ねられたのは、多くの選手、先輩たちが築き上げた数々の功績と伝統があったからです。その積み重ねが今の浪商野球部を支え、未来への道を照らしています」
そして、最後は「激励の『喝!』を入れます」と締めくくられた。拙者が末席に座った会場正面には、張本から送られたお祝いの蘭の花が飾られた。
日本プロ野球単独で唯一の3000本安打、通算3085安打は日本プロ野球最多記録。実家のあった広島から、あこがれて転校した先が浪商(当時浪華商)だった。
1926年創部で計32度(春19、夏13)の甲子園出場。尾崎行雄、高田繁、牛島和彦、香川伸行らスターを生んできた名門。全国制覇4回。終戦で全国中等学校野球大会が再開した46年夏は西宮球場で優勝。食糧難でグラブを手に入れるのも簡単ではない時代から高校野球の伝統を引き継いできた。
張本の高校時代はあまり語られていないので、1つ上の先輩にあたる樋口正蔵と向き合った。約200人の新入部員が入部してくるが、夏には激減。樋口は1年秋に入ってきた張本を「よく覚えている」という。
|
|
|
|
「駅でいうと崇禅寺(そうぜんじ)に下宿するんです。広島からピッチャーでよく打つ男いうのは伝わっていた。ケンカも強いし、ワルだともね。でもこっちは浪商だからね。ちゃんとしてましたよ。そのうち地が出るんですが、我々の前では直立不動、数年前に会ったときまで上にはずっとそうでしたよ」
樋口が苦笑したのは「野球も、ケンカも強い」が“天下の浪商”の代名詞と言われたからだろうか。上下関係は厳しさを通り越し、浪商の存在感を示すエピソードは壮絶、今では都市伝説になっている。
「張本は正義感が強くて、曲がったことが大嫌いでね。外でうちの部員がいじめられたりすると、最初は知らん顔をしていますが、いざとなると表に出ていきました。在日というのを隠さなかったし、うちでは差別はなかった。でも日本人に負けたくないというのは根っこにありました」
高校卒業後の樋口は法大を経て南海ホークス入り。63年の打率3割1分3厘はブルーム(近鉄)、榎本喜八(大毎)に次ぐパ・リーグ3位。シーズン133本のうち内野安打55本はイチロー級。10位が東映・張本勲(2割8分)だった。
引退後は実業家、JRA馬主として、京都馬主協会の役員も務めた。競馬界でも著名で、プロ野球選手だっただけに、同じ時代を過ごした後輩の話には説得力がある。
|
|
|
|
「テスト生みたいにきたが、ピッチャーを続けたかったみたいですが、いいフォームじゃない。制球はまぁまぁでも、生きたボールがこなかった。でも打つほうは天性のセンスというか素晴らしかった。しかも独特でね。障がいのある右手が弱いので、ボールを押す左手がポイントなんです。ボールが軌道に合わせて入れたバットに乗ってる時間が長い。だれにもマネができないでしょう。高校1年からあの打ち方はプロでも最後まで変わっていません」
樋口は「浪商にきたときから、わたしが1年のときの3年だった左打者の坂崎一彦さんに匹敵、いや上かもしれない」と証言。天覧試合で4番長嶋、6番王の打順に挟まる5番打者だった坂崎のことだ。
張本のプロ入りをつないだのは浪商監督・中島春雄で、巨人、東映、中日で監督を歴任した水原茂と戦友だったから。天国に旅立って1週間。樋口は「縁と運があった」と永久の人になった大打者をしのぶのだった。(敬称略)【寺尾博和】
|
|
|
|
|
|
|
|
Copyright(C) 2026 Nikkan Sports News. 記事・写真の無断転載を禁じます。
掲載情報の著作権は提供元企業に帰属します。