
野球の未来を見ていた男〜近藤貞雄伝
証言者 元デイリースポーツ記者・今野良彦(前編)
まだ一介のコーチだった1960年代から、近藤貞雄はマスコミへの発信を厭わない人だった。得意の弁舌で記者を引きつけ、自らの野球論を語る。当初は「100人中99人に反対された」という投手分業制を提唱し続けられた背景にも、そうしたメディアとの関係性があった。
監督になってからも、その姿勢は変わらない。中日時代には「野武士野球」、大洋時代には「スーパーカートリオ」を打ち出した。チームへの注目度を高め、それを選手の発奮につなげるため、常にマスメディアをどう活用するかを考えていた。
【近藤貞雄が呼びかけた"西武包囲網"】
その真骨頂とも言えるのが、日本ハム監督1年目の1989年だった。前年まで3年連続日本一の西武を独走させてはならないと、メディアを通じてパ・リーグ各球団の監督に呼びかけたのだ。
「西武にはかなわないから、ほかで星を稼ごうなんて、せこいことはやめよう。主力投手をどんどんぶつけて、ペナント争いを盛り上げよう」
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石橋を叩いても渡らない──そう揶揄されるほど慎重だった西武・森祇晶監督の手堅い野球に対する反発も込められていた。近藤監督が「西武包囲網」を提唱したと、記者たちは即座に食いついた。
近藤自身、勝算はあった。しかし、結果的にこの年の日本ハムは主力投手の不調が響き、西武に9勝16敗1分と大きく負け越して5位。それでもリーグ優勝は近鉄、2位はオリックスとなり、4連覇を狙った西武は3位に終わった。
はたして「西武包囲網」がどれほどの成果を上げたのかは定かではない。そもそも各球団にはそれぞれの事情があり、足並みをそろえて意図的な包囲網を敷くことなど現実には難しい。ただ、近藤にはマスコミが喜んで飛びつく発想と言葉があった。では、日々その言葉を聞いていた記者たちは、近藤にどんな監督像を見ていたのだろうか。
近藤が日本ハム監督に就任して3年目の1991年、その年にチームを担当した記者のひとりに、当時デイリースポーツの今野良彦がいる。1959年生まれの今野は、入社後の84年に広島担当となり、89年から阪神を担当。91年の1年間、連日のように近藤と顔を合わせた。その後はヤクルト監督の野村克也、巨人監督の長嶋茂雄も取材している。そんな今野に、当時65歳だった老将の実像を聞いた。
【ダンディーな老将の意外な素顔】
「まだ阪神担当だった時のことです。以前から知っている広島のコーチに会って、『今度、日本ハムの担当になるんですけど、近藤さん、けっこうダンディーじゃないですか?』って聞いたんですね。そしたら、『そんなことないよ。コーチ時代に監督とケンカしてケツまくったんじゃないの。意外と短気だから気をつけろ』って言われまして」
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近藤が中日のヘッド兼投手コーチを務めていた1974年のシーズン終盤。巨人と激しい優勝争いを繰り広げるなか、フル回転していた星野仙一の起用法をめぐって、監督のウォーリー与那嶺と衝突した。
星野をスクランブル起用したい与那嶺と、残り日程をにらんで温存を主張する近藤。ふたりは、つかみ合いになりかねないほど激しく言い合ったという。しかも、それが試合中のベンチ、選手たちの目の前で起きたこともあり、他球団にまで語り継がれていたようだ。
「実際、ダンディーに見えて、『瞬間湯沸かし器』と呼ばれていたとおり、短気な方でした。普段は穏やかそうに見えるんですけど、スイッチが入ると激しいんですよね。話していて下唇が出てきたら、『あっ、スイッチ入った。この人、怒ってるな』ってわかるんです(笑)。ゲームが終わって話を聞いている時も、興奮すると下唇が出てくるんですね」
試合後の会見でスイッチが入るのは、やはり負けた時だったのか。それとも、答えにくい質問を投げかけた時だったのだろうか。
「質問は大丈夫で、勝ち負けでとくに違いもなかったです。負ければ下唇が出る時はありましたけど、会見拒否はなかったかな。阪神担当の時の監督だった村山実さんはしょっちゅう会見拒否してました。記者が敵だと思ってましたから、よく怒られました。『そんな話、誰から聞いたんや』とか。コーチに聞いた話だったんですけどね。近藤さんはそういうことが一切なかった」
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【首のシワを隠すため夏でもハイネック】
1925(大正14)年生まれの近藤は、この1991年に日本プロ野球の監督として当時の最高齢記録を更新していた。では、年齢相応の好々爺らしい一面はなかったのだろうか。
「66歳になる年ですから、見た目はおじいさんなんですよ。でも、『首のシワが見えるのが嫌だ』って言って、夏でもハイネックのアンダーシャツを着ていたんですね。本人は気取って、『おしゃれだ』って言ってるんですけど、僕ら記者の間では『老人感を隠すためでしょ』って言ってて。当時、60歳を超えて監督をやる人はそんなにいなかったですからね」
のちの2006年、野村克也が71歳で楽天監督に就任し、74歳まで指揮を執った。長嶋茂雄は2001年、66歳で巨人監督を退任している。ただ、ふたりはいずれも30代で初めて監督に就任した。一方、近藤が正式に中日の監督に就任したのは55歳。キャリアのスタートからして、当時としては異色の「高齢監督」だった。
「近藤さんとは、試合前にベンチに座って話をする機会が多かったんですよ。その時、若い記者が何人かいて、女性も2人いて、野球をまったくわからないルーキーみたいな記者もいたんです。近藤さんはそういう記者にも、噛んで含めるように教えてくれていましたね。話し好きだから、というのもあったと思います。昔の話もしたり、野球以外の、趣味のテニスの話もしたりして」
プロ野球の監督で「話し好き」といえば、野村にもそんなイメージがある。ただ、その話の中身は近藤とはかなり違っていたようだ。
「ノムさんはね、ずっと野球の話。昔の話もあるんですけど、基本はコアな野球の話なんです。だから当時、『野村番を1年やれば、ほかの監督に3年ついたぐらいの野球の知識が得られる』って言われていました。ミーティングで選手にするような話を、僕らにするわけですよ。ピッチャーの配球の話とか。そのへんは近藤さんとはまた違いますね」
【近藤貞雄流の合理主義】
マスメディアを積極的に活用し、記者との会話を好んだ近藤。一方で、野村のように配球や技術論を細部まで記者に説くタイプではなかったということか。
「僕らに細かいことまで教えてくれなかったのか、あるいはそこまで考えていなかったのかもしれないですね。そのあたりで言うと、近藤さんがよく考えていたのは、日本の野球のシステムについてです。野球界の仕組みそのものに疑問を持っていた部分が、わりと多かったと思います。
たとえば、サインもそうです。日本ハムの監督になった時にブロックサインをやめて、フラッシュサインに変えたんですよ。ブロックサインはキーがわかると相手に読まれる、というのも理由ですが、動作が多くて時間がかかると。日本のプロ野球の試合は長い、試合が長引くのは好きじゃないということで、数字の組み合わせでパッと出せるフラッシュサインにしたわけです」
近年の野球界ではピッチクロックをはじめ、試合時間短縮のためのさまざまな施策が導入されている。もちろん、時短そのものが監督の仕事ではない。それでもフラッシュサインの採用には、無駄を省き、ファンにとってテンポのいい、面白い野球を見せたいという近藤らしい合理主義が表われていた。
その合理性は、グラウンドの外にも及んでいたという。
「これは野球そのものじゃないですけど、近藤さんは移動の時の自由も認めていたと思うんですよ。普通、選手はみんな揃ってスーツで移動するわけです。巨人担当の時なんか、球団から『一緒に移動する時はスーツを着てくれませんか?』って言われて。『一緒にテレビに映ることもあるので、だらしないかっこうをしないでください』ってお達しがあって、ネクタイ締めてね」
今野が巨人を担当したのは1996年から97年。長嶋監督の第2次政権下で、とりわけ96年は最大11.5ゲーム差をひっくり返した「メークドラマ」でリーグ優勝を果たした。チームへの注目度は極めて高く、その影響は周囲のマスコミにまで及んでいた。
「その点、日本ハムはけっこう自由な服装で。角(盈男)さんと若菜(嘉晴)さんとか、ひどかったですよ(笑)。移動の時、アロハシャツですから。それで近藤さんに『選手がアロハで大丈夫なんですか?』って聞いたら、『いや、いいんだよ、別に。一緒に移動しなくていいしさ』って言ってて。当時の野球界は規律、規律でガチガチでしたから、ちょっと考えられなかったです」
マスコミに向かって次々と言葉を発したのも、単に目立ちたかったからではない。自分が面白いと思う野球、新しいと思う野球を言葉にし、それを周囲に投げかける。その反応まで含めて、近藤にとっては野球だったのかもしれない。
(文中敬称略)
つづく>>
高橋安幸●文 text by Yasuyuki Takahashi
