
平井克典インタビュー(後編)
プロ野球人生10年目の今季、右腕・平井克典はこれまでとは大きく異なる環境に身を置いた。メキシコのプロ野球に挑戦し、シーズン途中の5月にはBCリーグの神奈川フューチャードリームスに入団した。
34歳にして初めて移籍を経験したのは、2025年限りで西武から戦力外通告を受けたからだ。
「昨シーズンでNPBをクビになって、もう一回戻りたいという気持ちでやってきました。年齢的なことも考えて、今年戻れなかったら辞めると家族にも言ったうえでのメキシコ挑戦です。それから神奈川に来て、今年の7月31日にNPBに戻れなかったという事実で、辞めると。そこで区切りをつけました」
筆者は6月中旬にも平井を訪ね、神奈川に入団した目的を聞いていた。その言葉からは、NPB復帰にかける覚悟が伝わってきた。
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それから約1カ月半。7月末でひとつの区切りをつけ、9月6日に予定されていた引退試合を迎える直前だった(雨天による2度の延期を経て、同9日に開催された)。10年間の現役生活が終わろうとしている今、どんな思いが胸をよぎるのか。
【防御率27.00でも行ってよかった】
「本当に終われたと思う時もある反面、もうちょっとできたのかなとか、もうちょっとこうやれれば、もっとできたのではと思う時もあります。本当に終わっちゃうんだなっていう寂しさもあったり。今、いろんな感情でぐちゃぐちゃしています」
とりわけ平井の場合、最後の1年をそれまでとはまったく異なる環境で過ごしたことも、さまざまな感情につながっているのだろう。
2025年オフ、メキシコ球界のアルゴドネロス・デル・ウニオン・ラグーナから届いたオファーを受けるかどうか、悩みに悩んだ。
息子がちょうど小学校に入学するタイミングだった。家族を連れていくのは生活面を考えても難しく、メキシコへ行けば単身赴任になる。それでも、海を渡ることを決めた。
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「僕は今まで日本が大好きで、あまり外に出たがらない性格です。でも出てみて、こういう世界もあるんだなと。野球も180度違いました」
メキシコのプロ野球「Liga Mexicana de Beisbol(LMB)」は、極端な"打高投低"で知られる。2026年のリーグ平均防御率は5.42。一方、規定打席に到達して打率3割以上を記録した打者は70人にのぼった。
MLBコロラド・ロッキーズの本拠地クアーズ・フィールドは標高約1600メートルに位置し、"ヒッターズパーク"として知られる。LMBには標高の高い都市を本拠地とする球団も多く、平井がプレーしたトレオンもそのひとつだった。
「そういうところで野球をやると、変化球が曲がらなかったり、ボールが勝手に動いたり、打球がすごく飛ぶ。今までやってきた野球とまったく違うものをやりに来たんだなと、カルチャーショックでした」
標高が高くなれば空気が薄くなり、投球にも影響する。平井の宝刀であるスライダーも本来のキレを失った。開幕から3試合に登板し、2回1/3を投げて7失点、防御率27.00。開幕からわずか1週間ほどで契約を打ちきられた。
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野球だけを見れば、不本意なメキシコ挑戦だった。それでも、異国に飛び込んだからこそ得られたものがあったという。
「あっちの人はミスを引きずらないというか。日本人の教え方として、『今日こういうミスをしたから、じゃあ次、このミスをしないようにどう考えるか』と、失敗にフォーカスしますよね。でも、メキシコ人は『こういう失敗はあったけど、いいことがこんなにあったじゃん』と、よかったほうを伸ばしていきます」
【神奈川で始まった教える側への第一歩】
それから約1カ月後、平井はBCリーグの神奈川に入団した。見据えていたのはNPB復帰だけではない。その先の人生も、少しずつ考え始めていた。
「これから先も野球に携わっていきたいと思っています。監督やコーチ、スタッフ的なこともやってみたい気持ちもあるなかで、神奈川で若い子たちと一緒にやるのは、これから先、野球を教える側に回った時に生きるかなと思います」
平井が西武に在籍した9年間は、選手の育成法やコーチングのあり方が大きく変化した時期でもあった。時代とともに指導法が変化するなか、チームには新しい考え方を持つコーチもいれば、昔ながらのスタイルで選手に接する指導者もいた。
神奈川でひと回り以上も年齢の離れた若手からアドバイスを求められるようになり、平井は自分が現役時代に何を感じていたのかを思い返した。
「打たれたあと、コーチに『なんであの時、あの球を投げたんだ』と言われても、『知らねえよ』って思っていました。こっちだって打たれたくて打たれているわけではないし、フォアボールを出したくて出したわけではない。内心『いや、うるせえし』と思ってシャッターを閉ざしたら、会話にならないじゃないですか。僕もコーチに言われたことが頭に入ってこなかったので、神奈川の子たちとそういう関係になるのは嫌だなと」
一方、西武では自分が理想とする指導者にも出会った。
とくに大きな影響を受けたのが、入団から2年間、一軍で指導を受けた土肥義弘投手コーチだ(現ファーム投手チーフコーチ)。
「抑え方の幅を広げてくれて、教わることが多かったです。打たれた次の日に反省をともにしてくれて、『あの時にこうしたかったです』と言うと、『それは合っているよ』とか、『それならこういう球の使い方をしたほうがよかったんじゃないか』と言ってくれたのが大きかったです。今、若い子に聞かれた時、まずは僕も『どうしたかったの?』と聞いて、『じゃあ、何をしなきゃいけなかったと思う?』と、答え合わせをしていくような会話ができるようになりました」
指導者から一方的に「正解」を押しつけるのではなく、まず選手自身の考えを聞く。そのうえで一緒に答えを探していく。
現代の選手は、映像やデータ、SNSなどを通じて日々さまざまな情報に触れている。だからこそ指導者には、十分な知識を持ちながら選手と適切な距離感で対話し、ともにゴールを目指す姿勢が求められる。
かつて土肥コーチに導いてもらったように、今度は平井が神奈川の若手たちと向き合った。
【成功も失敗も、すべてが勉強だった】
目標としていたNPB復帰はかなわなかった。それでも、未知のメキシコへ飛び込み、独立リーグで若い選手たちとプレーしたからこそ気づけたことがある。
そうして迎えた、10年間の現役生活の終わり。
「ファンのみんな、俺のこと、どう思っていたのかな」
自身を「気にしい」と表現する平井は、ユニフォームを脱ぐ今も、そんなことを考えているという。
「ファンは見ていて、打たれた時のほうが多かったと思います。僕のなかで、抑えた記憶があまりないのもありますけど。そういう時でも変わらず声をかけてくれて、応援してくれました。それが間違いなく、僕らの頑張るエネルギーというか、一番の活力になりました。やっぱり僕らは、抑えているところを見てほしい。そのために頑張ってこられたのは、間違いなくファンのみなさんのおかげです」
年間81試合に登板し、パ・リーグ記録を打ち立てたシーズンもあった。勝利の方程式を担い、リーグ連覇にも貢献した。それでも、平井の脳裏によみがえるのは"いい記憶"ばかりではないという。ホールドを積み重ねた試合よりも、痛打された場面のほうが鮮明に残っている。
「先発ピッチャーには、本当に『ごめんなさい』です。リリーフしかやっていなかった頃は、『もっとイニング投げろよ。行けるだろ』とブツブツ言っていたんです。でも、僕も2020年以降に先発をやって難しさを知り、長いイニングを投げられない時は『リリーフに申し訳ない』という気持ちになりました。
そうやって、いろんな勉強をさせてもらったな。負けん気だけでやってきたのが、いつの日か、わがままに変わっていたような気がしなくもないけど。その分は、監督、コーチには本当に申し訳ないなという思いもあります。とりあえず10年間、たくさんの勉強をさせていただきました」
81試合登板のパ・リーグ記録を樹立してから7年。誰よりもマウンドに上がったシーズンがあり、先発にも挑戦した。NPBを離れてからは海を渡り、メキシコで文化の違いに驚き、独立リーグではひと回り以上年下の選手たちと野球をした。
成功も、失敗も、悔しさも、すべてが平井にとっての「勉強」だった。
10年間、右腕を振り続けた平井克典は、選手としての野球人生にひと区切りをつける。そして今度は、その10年間で得たものを誰かに伝える側として、新たな野球人生を歩み始める。
平井克典(ひらい・かつのり)/1991年12月20日、愛知県出身。飛龍高から愛知産業大、Honda鈴鹿を経て、2016年ドラフト5位で西武に入団。1年目から42試合に登板し、18年には64試合で21ホールドを挙げてリーグ優勝に貢献。翌19年にはパ・リーグ記録となるシーズン81試合に登板し、リーグ連覇を支えた。その後は先発も経験するなど幅広い役割を担い、西武では通算350試合に登板して29勝25敗、104ホールド、防御率3.39を記録。2025年限りで西武を退団し、26年はメキシカンリーグを経てBCリーグの神奈川フューチャードリームスでプレー。同年8月に今季限りでの現役引退を表明した

