
重い雲が垂れ込める空の下、有明テニスの森イベントステージ。
木下グループジャパンオープン本戦開幕を2日後に控えた会場では、多くのファンが見守るなかで、大会ドローミーティングが行なわれていた。
テニスの大会のドローは、上位シード選手たちの位置が先に決まり、残りを文字どおり『draw(抽選)』で決めていく。ジャパンオープンの第1シードは、世界3位のカルロス・アルカラス(スペイン)。彼の名が、あみだ状のドロー表の一番上に記される。一番下に入るのは、第2シードにして世界8位のフランシス・ティアフォー(アメリカ)。その間を、ほかの選手たちの名が埋めていく。
選手名に対応する番号くじを引くのは、「立会人」を務める坂本怜とアレクサンダー・ブロックス(ベルギー)。そして、公開ドローを見に来た子どもたち。くじが引かれ、日本人選手や人気選手の名が読まれるたび、ギャラリーからは「おおっ!」と声があがった。
ところが......おそらくは皆が待っている『錦織圭』の名が、なかなか呼ばれない。
|
|
|
|
子どもたちはみな、我こそが錦織圭の名を引き当てようと気合いを入れるが、ことごとく、ほかの選手の名が現れる。ドロー表に残るは、ついに最後の二枠に。片方は、初戦の対戦相手が「予選上がり」。もうひとつの枠の対戦相手は、第2シードのティアフォーである。
果たして、錦織はどちらに入るのか──?
皆が固唾を飲んで見守るなか、最後に引かれた番号は......錦織、ではない! この瞬間、錦織圭のキャリア最後のツアー大会初戦の相手は、ティアフォーに確定した。
現在28歳のティアフォーは、日本のテニスファンにとって馴染みのある選手だろう。ジャパンオープン出場は今回で7度目を数え、2022年にはテイラー・フリッツとのアメリカ対決の末に準優勝した。ここ3年は初戦敗退を喫しているが、今季は安定した戦績を残し、先の全米オープンでもベスト4。なお、その全米オープン2回戦では、錦織を破って本戦の切符を手にした坂本怜の挑戦を退けている。
【「もし賭けるなら、僕は圭だね」】
錦織とティアフォーの対戦は、過去一度。8年前のエルステ・バンク・オープン(ウィーン)で、その時は錦織が7-6、5-7、6-2で勝利した。
|
|
|
|
一度しか対戦していない。それにもかかわらず、両選手の親交が深いように感じるのは、ティアフォーが折に触れて、錦織を「尊敬する選手のひとり」として言及しているからだろう。
特に印象深いのは、今年3月に選手仲間が運営するポッドキャスト番組に出演した際のコメント。「ベストのテイラー・フリッツと、全盛期の錦織はどっちが強い?」と問われたティアフォーは、「テイラーのことは大好きだ。彼の実績はすばらしいし、日々進化しているが......」と前置きしつつ、こう続けた。
「僕が言わんとすることはわかるよね? みんな、圭がどれだけとんでもないことをしたか、ちゃんと理解していないと思うよ。
ケガから復帰した2018年、彼は全豪オープンには出られず、代わりにATPチャレンジャー大会に出ていたんだ。その1回戦でデニス・ノビコフ(アメリカ)に負けたのに、最終的にはロンドンのツアーファイナルズに出たんだよ!? それがどんだけすごいことか、考えてみてよ!」
さらには、自身が対戦した時のことを、次のように回想する。
|
|
|
|
「ウィーンで対戦した時は、まるでピンポンをプレーしているようだった。圭のバックハンドはすばらしい。特に打つ方向を変えるのがうまいし、動きもいいので、こちらは慌ててしまう」
そのうえで、冒頭の質問に戻り、ティアフォーはこう言った。「もし賭けるなら、僕は圭だね」と。
今年7月のワシントンDC大会の際も、ティアフォーは錦織との再戦を熱望する言葉を残している。自身も魅せるタイプであるティアフォーは、錦織のような華のある選手との対戦が楽しいのだろう。
対する錦織は、大会開幕に先駆けて、連日センターコートでしっかり汗をかいている。この日(28日)は、元世界4位で今月ケガから復帰したばかりのホルガー・ルーネ(デンマーク)と試合形式の公開練習を行なった。
【最後にすべてを持っていく千両役者】
公式戦さながらに、激しいストロークを交わす両者。その最中に、こんな一幕があった。
ルーネの柔らかなロブが、錦織の頭上を越える。その打球を追う錦織は「これは、やるしかないか」とでも言いたげな、少しやんちゃな笑みを浮かべていた。そうして見る者の期待どおり、鮮やかな股抜きショットを放つ。さらにはルーネの返球を、片手バックハンドで打ち抜いたのだ。
練習終了後のオンコートインタビューで、錦織はこのショットに触れ、「さすがに、一球くらいは見せないと」と控えめに笑う。大会前会見で「ファンに見せたいプレーは?」と問われ、「自分が(プレーを)楽しめれば。お客さんの受け取り方はそれぞれでしょうし」と答えていた彼にしてみれば、珍しく他者の視線を意識した発言だ。
実際には錦織のプレーを見るファンの思いは、「ワクワクする」に収斂(しゅうれん)されるだろう。彼のプレーには、理屈を超えて見る者を惹きつける華がある。
この錦織の華について思う時、思い出すのは、WOWOWテニス中継のスペシャルナビゲーターであり、日本人初のプロテニス選手・石黒修を父に持つ俳優の石黒賢氏の言葉だった。
石黒氏はかつて、敬愛する先輩俳優に「手の中に隠した物を、ゆっくり手を広げて見せるように役を演じなさい」と教わったという。一度にすべてをさらけ出すのではなく、玉ねぎの皮を剥くかのごとく、徐々に、徐々に、内面や人間性を表現するのが演技の極意。
それを踏まえて石黒氏は、「錦織選手のテニスを見た時、優れた演技を鑑賞した時と同じような興奮を覚えた」と言った。
次に何が出てくるかわからないからこそ、見る者は胸を躍らせる。あのプレーにはどのような意図があったのかと、試合を見たあとに語りたくなる。なかなか手の内を見せず、最後にすべてを持っていく千両役者──。それが、錦織圭の華だろう。
今回のドローミーティングですら、本人の意図ではないものの、彼のプレーを見ているかのような高揚感があった。なかなか姿を現さず、最後の最後に、第2シードのとなりにパッと名を刻むのだから。
果たしてどんな試合になるか、あれこれ想像するのも含めて"錦織劇場"。今はただ、舞台の幕が開く瞬間が、待ち遠しくてしかたない。
内田 暁●取材・文 text by Akatsuki Uchida