
遅咲きの有名人といえば、65歳のとき起業したケンタッキーフライドチキンのカーネル・サンダース、日本ではアンパンマンの生みの親で、69歳のときテレビアニメ『それいけ!アンパンマン』でブレイクしたやなせたかしである。
ここにも一人、遅咲き経営者がいる。奈良県に本拠を構える「鈴木靴下」の鈴木和夫社長(67)だ。
鈴木さんは世界で初めて米ぬかを含んだ繊維で靴下を作った。米ぬかとは、精米するときに出るもので、スキンケア商品に使われたりしている。
米ぬか靴下の“世界の第一人者になる”
米ぬかで靴下─前例のない試みゆえ、苦難の連続だった。
「うちは兼業農家でね。田んぼでできた米を精米するたび、ぬかを捨てるのはもったいない、靴下に生かせないかなあという思いが強くなりました」
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着想したのが25歳、商品がようやく完成したときには48歳になっていた。
『羽鳥慎一モーニングショー』(テレビ朝日系)や『鶴瓶の家族に乾杯』(NHK)などテレビでも取り上げられるようになったのは60歳を過ぎてからだ。着想からなんと40年以上、70歳に近づく今、こう言う。
「これからがスタートだ」
鈴木さんは家業を継ぐ形で、初代社長でもある厳しい父親に「あかんたれ」(意気地なし)と言われ続け、入社後、工場の下働きに20年近く耐えた。実現は難しいと思われていた米ぬか靴下の開発は、その合間を縫ってほそぼそと続けてきたという。
普通ならば途中で挫折しそうな鈴木さんを支えたのは、妻と長女だった。
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先代社長から「できるわけない」と言われても、従業員から「意味のないもん作ってもしゃーない」と突き放されても、妻の喜子さん(64)はそばで見守ってきた。
「本人がずっと思い続けてきた靴下だったので、できるできないより、やったほうがいいんじゃないかと考えて、うまくいくよう手助けできるところはしたいと思っていました」(喜子さん)
鈴木さんが苦境に立たされると、CAとして世界中を飛び回っていた長女・みどりさん(38)が、航空会社を辞めてバックアップした。
今や年商4億3000万円('26年3月期)のうち3割近くを米ぬか繊維関連が占めるまでに成長し、社員の期待を集める商品になった。
やわらかい奈良の言葉で、にこやかに話す鈴木さんだが、一本気で、少々負けず嫌いである。
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「みんな目先の成果を出したいから、今ならば流行のリカバリーウエアを作りたがる。でも私はそういうのに見向きもしないで、ひたすら米ぬか靴下に懸けました。自分に言い聞かせてきたのは、米ぬか靴下の“世界の第一人者になる”ことです」
従業員43人。奈良県北西部、日本で2番目に小さい面積の三宅町にあるメーカー社長が、米ぬか靴下で世界進出を目指すまでの姿を追った。
会社に居場所がない、忘れもしない屈辱の言葉
「入社して20年ぐらい、会社の中に私の居場所はずっとなかったんです。だからこそ、米ぬか靴下をどうしても作りたかった」
鈴木さんはしみじみ、そう回想する。1958年生まれで、2人姉弟の長男。跡取りで、なおかつ鈴木さんと同じ年に「鈴木靴下」が誕生しているから、2代目として多少甘やかされて育ったのかと思いきや、そうではない。前社長で父親の勇一さんは、息子を相当厳しい環境に置いて育てたようだ。
まず近畿大学に進学しても、工場の夜勤要員をさせられた。同級生がバイトだ、コンパだと楽しんでいるとき、平日夜7時から深夜2時まで(土曜日だけ夜12時まで)働いた。繁忙期には田んぼの手伝いにも駆り出された。友達とも予定が合わず、遊べない。
就活シーズンになると、両親に「就職はせず家業を手伝って」と懇願される。しかし任された仕事は、学生のときと同じ夜勤だった。
「その上、内職の人の家を回って仕事の依頼と回収、糸が搬入されたら工場内に運んで所定の場所に置いたり、古い資材を片づけたり。工場の人たちが作業しやすい環境を整える仕事も加わりました。同じ仕事を来る日も来る日も判を押すように繰り返していました」
結婚後、風向きが変わるかもしれないと希望を持てた瞬間もあった。
妻が大阪の大手スポーツ用品メーカーに勤務していたため、営業して仕事を取ってこれないかと、当時の勇一社長に提案されたのだ。
「その話がうまくいったら、おまえたち二人で開拓していったらええやないか」
妻は難色を示したが、結婚式参列のお礼をかねて元いた会社へ二人で出かけた。すると半年後、サッカーストッキングの発注が舞い込む。“よっしゃー!”と妻と手を取り合って喜んだのもつかの間、社長が前言を翻した。
「俺とおまえの間には、番頭がいるということだけは忘れてはあかんぞ」
結局、スポーツ用品メーカーの仕事は番頭が担当することに。番頭は鈴木さんより13歳上で、知識も経験も上だから致し方ない。鈴木さんは理不尽を甘受するしかなかった。
「家内には悪いことをしたなと。無理言って営業してもらったのに、私は期待に応えられなかった。本当に情けないというか……」
'87年に関わり始めたサッカーストッキングの仕事は、メーカーの高い評価を獲得。'93年にJリーグが開幕すると、鈴木靴下にとって大きな仕事となっていく。やがて、サッカー日本代表チームやJ1リーグに所属するチームのストッキングも作ることに。
ただ、鈴木さんの仕事はほとんど変わらなかった。
「同級生にたまに会うと、会社でやりがいのある仕事を任されてる。バブルの時期で、給料も上がって楽しそうでした。自分ときたら、打ち込める仕事がなく、居場所もない状態でしたから」
今でも話し始めると、つい拳が硬くなるほどの悔しい体験をしたことがある。
会社が得意先を招いてゴルフコンペを催したときのこと。夜の懇親会の際、得意先の、鈴木さんと同じ35歳ぐらいの社員からこんな言葉を浴びせられた。
「あんた、何も仕事してないんやから、せめて手でも叩いてもっと盛り上げろよ。それぐらいの接待はせえ。何も役に立ってへんやないか」
鈴木さんは顔をやや紅潮させてこう振り返る。
「悔しくて悔しくて。そういうふうに人を見るかと思ってね。今までいろんなことがあっても耐えられたけど、これだけは忘れられません。下で支える仕事に対する評価はこの程度なのか。外から見えにくい仕事は評価されにくいんだ、と痛いほどわかりました」
番頭は40代後半、脂が乗り切った時期だから、鈴木さんに仕事を回すことはない。「かわいそうだ」と言う従業員もいたが、勇一社長は甘い顔を見せなかった。
「おまえが何かしたければ、自分で考えて、時間をつくってやればいい。そんなこと人に聞くもんやない」
奮起して39歳のとき、ゴルフ用靴下を開発。靴下の足底部に特殊なクッション素材をつけ、疲れにくい靴下を作ったのだ。評判はよく、大手デパートやゴルフ場などでも販売され、4万足以上を売り上げた。だが1アイテムだけで展開する難しさを感じた。
米ぬか靴下作り、鍋煮込みからスタート!?
そんな日常の中で、鈴木さんはあるアイデアをずっと温めていた。米ぬかを使った靴下である。思いついたのは、25歳のときだ。
「小学生のころ、米ぬかを布で包んだぬか袋を母親が作ってくれたんです。それで廊下を拭くと黒光りするほどツルツルになったんですよ。あれが忘れられなくてね」
大阪の糸の商社マンに「米ぬかで靴下を作ったらどうやろ?」と感想を求めたことがあった。しかし相手は20代、ぬかを触ったことさえなく、“ふーん”と関心がない様子だった。
精米をするたび、米ぬか靴下を作る方法はないかと幾度となく考えるも、打開策が見つからないまま20年近くが過ぎたという。
そして45歳のとき、ヒントとなるシーンを目にする。
「公園で遊ぶ子どもの洋服に土や泥が入り込んで汚れる様子を見てね。靴下と米ぬかを鍋で煮てみてはどうだろうと思い立ったんですよ」
善は急げ。鈴木さんは家に帰るやいなや台所に立ち、無心で靴下を煮込んでいた。学校帰りの長女・みどりさんは父のその姿を見て絶句した。
「何やってんの!?」
「今日の晩ごはんや(笑)」
みどりさんは、衝撃の光景だったと笑う。
「私、結構信じてしまうタイプなので、お父さん、大丈夫かなと本気で思いましたね」
ぬか色に染め上がった靴下を干してみた。ところが乾かして叩くと、ぬかは靴下に定着することなく、あっけなく風とともに飛んでしまった。
そんな状況を好転させる運命の出会いが訪れる。
地元の商工会を通じて紹介してもらった和歌山県工業技術センターの谷口久次さんだ。
「長年、米ぬかを研究してきた方で、厳しい研究者だと聞いてましたが、臆せず米ぬか靴下の構想をぶつけてみたら、“面白い!”と言ってくださったんです」
谷口さんは米ぬか成分の抽出方法を教えてくれた。
(1)フライパンで米ぬかを中火で3分炒る (2)アルコール度数が35度以上の液体に入れ、上澄み液を取り出す (3)その中に靴下を入れる (4)繊維製品にぬか成分が定着する素材を塗り込む
そして大切な助言も授けてくれた。
「鈴木君、最後には絶対にいいものができるよ。ただし、この研究は、絶対に一人で進めなさい。会社で会議をすると、無難な結論に落としどころを見つけるものだから」
一人っきりの作業が始まった。指示どおりに米ぬかを抽出すると、失敗を重ねながらも、なんとか自家製米ぬか靴下が産声を上げた。
さっそく周囲に声をかけ、靴下をはいてもらい、69人がアンケートに答えてくれた。感想を読むと、「足がすべすべするようになった」という声がある一方で、「洗濯したら、効果が落ちる」という反応が多数あった。
そこで専門の紡績会社に米ぬか繊維の製造を依頼。米ぬか靴下の面白さを理解してくれ、試作がスタートする。何度も作り直しながら、2年がかりで完成させた。2006年のことだ。
「1足の靴下にはおにぎり1個分のぬか成分が含まれています。米ぬか繊維のレーヨンには、無数の小さい穴があいていて、そこに米ぬか成分が入るんです」
鈴木さんは、試作の経過を恩師である谷口さんに逐一報告し、交流を続けた。
営業での挫折|ゴミ箱に頭を突っ込み……
念願の商品を手に、いざ売り込みを始めるも、七転八倒の苦労を経験する。
米ぬか繊維を用いた渾身の黒のハイソックスと、ワープロで書いた解説文に写真を貼りつけた手作り資料をカバンに入れて東京へ。
都内の生活雑貨店を中心に飛び込み営業をした。
「話ぐらい聞いてくれるだろう」と甘く考えていた。
しかし渋谷、新宿、池袋、北千住、豊洲、川崎と回る先々で厳しい洗礼を受ける。
「アポイントはとられてますか?」と聞かれるも、“アポイント”の意味すらわからず、日を改めるよう告げられて門前払い。
では営業トークはというと、妻の喜子さんによれば、
「主人はもともと口下手で、それまでは内職のおばさんとしかしゃべったことがないぐらいでしたから(笑)」
というほどだから、結果は推して知るべし。
「話を聞いてくれても、『長い説明はいらないから、ワンフレーズで言ってくれます?』と言われ、サンプルの靴下を投げ返すようにした人もいました。30分ほど説明したのにひと言も発しないで、何しに来たんですかと言わんばかりにずっと上から目線の担当者もいました、圧迫面接みたいに。1時間の商談が終わって、吐き気と腹痛、めまいもして歩けなくなりました」
断続的に吐き気が襲ってくるため、有楽町駅のトイレに駆け込んだり、トイレに間に合わず駅のホームでゴミ箱に頭を突っ込んだりする状態だったという。
当時、夫からの電話を受けた喜子さんは、「東京に泊まってください」と伝えたが、宿泊先を探す元気さえ枯渇し、その日のうちに奈良へ。ズタズタの営業デビューだった。
年が明けて'07年1月には、東急ハンズ(現・ハンズ)三宮店(兵庫県)の特設売り場に夫婦二人で立った。喜子さんが回想する。
「二人とも初めての経験ですから呼び込みをする勇気はなくて、興味を持って靴下を見に来てくれた方にだけ話す程度でした。すると、女性の方が1200円のソックスを買ってくださって、そのときは本当にうれしかったです。売ることの難しさとありがたさを知る貴重な体験でした」
普段は厳しいことを口にする勇一社長だが、親族と売り場を訪れ、激励し、靴下を買って帰ったという。
「父の夢を守ろう!」娘の入社で新展開
'08年、鈴木さんが50歳のとき、社長を勇一さんから引き継いだ。
鈴木さんは、売り上げの偏りをどうにかしなければと考えていた。同社の売り上げの6割を占めるサッカーストッキングの繁忙期は、春までの数か月に集中する。それ以外の季節を米ぬか靴下で埋められないかというのが、新社長のもくろみだった。
新しい試みとして、米ぬか繊維で作ったネックウォーマー、夜寝るときに着けるおやすみ手袋、アームカバーを販売したが、期待したほど売れなかった。
「米ぬか靴下の開発はずっと、妻と私の蓄えを取り崩しながら続けていました。妻は家計をやりくりしながらね。私個人で始めたことだから、会社に迷惑をかけるのは何としても避けたかったんです」
十分な資金と時間をかけられないため、開発スピードが遅くなるのは致し方なかった。
そんな苦境を見て大きな決断をしたのが、CAをしていた長女のみどりさん。
'14年、航空会社を退職し、鈴木靴下に入社した。
「CAになったとき、ビジネスクラスの担当を一つの目標にしていて、それが叶ったのと、結婚したタイミングだったんです。父の努力が無駄になるのがいちばん嫌で、父の力になりたいと思いました」
鈴木さんは、みどりさんに家業を継いでほしいと言ったことはなかった。決断を聞いてうれしい半面、「親として責任を持てるのかという気持ちだった」と話す。
以降、鈴木さんはみどりさんを、東京の営業先などに連れて行くようになる。
「話の内容が多少わからなくても、大手企業に行ったときのプレッシャーに慣れてほしかったんです。自分が苦労したから余計にね」
米ぬか靴下から新商品「締め付けない靴下」を親子で開発!
みどりさんの参加によって、米ぬか靴下は着実に前へ向かって進み始めた。
みどりさんは、ECサイトの知識がゼロの状態から、講習会に出たり、直接運営元に問い合わせをしたりしながら、手探りで立ち上げに成功。特に楽天市場への出店効果は大きかった。
シリーズ累計10万足以上、楽天の敬老の日ギフトランキングで、'18年から8年連続で1位に輝くヒット商品が生まれたからだ。目玉となったのは、「締め付けない靴下」。
この靴下は、先代社長・勇一さんのリクエストから試作が始まった。もともと心不全を抱えていたため足首がむくみ、普通の人の1.5倍の太さがあった。
「俺の靴下を作ってくれ」という声に反応したのがみどりさん。そこから、鈴木さんとみどりさんとの親子共同開発が始まる。
「娘と試作品を作っては、父親に試着してもらって感想を聞く。要求が厳しいので、何度も修正を繰り返すうちに1年かかりましたが、苦労した分、いいのができました」(鈴木さん)
完成品をはいた勇一さんは、満面の笑みで「ベリーグッド!」を出す。
ふくらはぎ部分はゆったりしているが、ズレにくく、形状記憶する構造になっているため、数回さすると肌にフィットする点も気に入ったようだった。
「あんまり褒めない父が、このときは本当にうれしそうでした」(鈴木さん)
勇一さんはこう続けた。
「俺みたいに困ってる人がたくさんいるはずやから、これを販売したらどうや」
締め付けない靴下が完成したのは'17年のこと。勇一さんの言葉に励まされ、楽天などのECサイトで紹介すると火がつき始めた。
'18年には『羽鳥慎一モーニングショー』、'20年には『鶴瓶の家族に乾杯』で紹介された。近所の人が笑福亭鶴瓶に会い、「米ぬか靴下を作る面白い工場がある」とすすめたところ取材が決まった。工場に張られたポスターのコピー「この靴下 締め付けない、きつくない」が数秒映り込むと、問い合わせが殺到した。
従業員の西堀さんは、当時をこう回想する。
「最も忙しかったときは、電話の問い合わせがひっきりなしで、ネットはパンク寸前。出荷の梱包を社長と奥さん、みどりさんと4人で、毎晩10時前後までしていましたね」
会社に直接来る人もいて、中には四国の客もいた。
鈴木さんは「接客のため」と、会社の玄関にいちばん近い場所に自分の机を移動させた。西堀さんが語る。
「お客さんが来られたら、いちばんに“いらっしゃいませ!”と出ていって、お客さんの対応をしてくれる。普通、社長の机はもっと奥ですよね。正直言えば、社長がずっと隣の席なので、ちょっと窮屈ではあるんですけどね(笑)」
米ぬか靴下は、社長一人が進める事業という意味を込め、従業員から“社長の靴下”と、少し距離を置いた呼ばれ方をしていた。しかし製造が追いつかないぐらいの人気商品になるにつれ、社員の反応も“期待”に変わり始める。
工場長の井上雅司さんは、鈴木さんの情熱も、従業員の心を変えていった一因ではないかと言う。
「社長が、米ぬか靴下の商談から戻ってくると、従業員を集めてじゃなく、手の空いた従業員を呼び止めて、『今日の商談、すごく反応がよかったんや』とか、熱っぽく報告してくれるんです。反応がいまひとつだったときも、少ししょんぼりしながら。結果はどうあれ、われわれのモチベーションが上がります。どこの靴下会社でも自社ブランドを作りたいと思っているけど、なかなかできない。だから社長の情熱、すごいなと」
みどりさんも鈴木さんの商品に懸ける熱い思いが、営業先の人の心を動かす瞬間を現場で見たという。
「最初は小さい会社の社長が来はったな、お手並み拝見みたいな空気が漂うんですけど、社長が話し始めると引き込まれていくのが横で見ててもわかるんですね。前のめりになってくる。そういうシーンを1回じゃなくて何度も目の当たりにして、熱意って人に伝播するんだなって」
思いやりを大切にする社長の新たな挑戦!
なかなか日の目を見なかった米ぬか靴下。反対されたり、心配されたりしながらも、従業員に見守られたのは、鈴木さんの従業員への「思いやり」があったからだ。従業員に話を聞くと、次から次へと「思いやり」エピソードが出てきた。
例えば、大きな出荷が終わったときは、紅白まんじゅうなどが振る舞われるという。前出の井上さんはこんな逸話を披露する。
「台風が近づいて、翌日の出勤が危険だと思ったら、休業にするんです。自転車通勤の従業員がいて、帰宅時間に雷が鳴れば、社長が自転車を車の荷台に積んで門で待ち構えてて、“乗って!”って(笑)」
「家族に信頼、家族に笑顔」は鈴木靴下の哲学だが、従業員を家族のように思うからこそ、自社ブランドに邁進する社長を見守る余裕が生まれたのだろう。
'23年には新たな展開があった。みどりさんを部長とする「米ぬか事業部」を立ち上げ、本社のすぐ近くの田んぼに囲まれた場所に、米ぬか靴下の直営店もオープン。売り上げはECサイトを中心に伸びており、年商の3割近くを米ぬか繊維製品が占めるまでになった。
さらに今年4月、大きなニュースが飛び込んできた。
「うちが開発した米ぬか靴下には、保湿作用があることが専門機関による保湿性試験で実証されたんです。空気も湿度も通す生地の状態では、これまで保湿は難しいというのが常識だったんですが、画期的な結果だと第一線の研究者も評価してくれています」
試験をすすめたのは、成分が皮膚を通ってどう浸透するかを研究する第一人者である城西大学の杉林堅次先生(特命教授)だった。
「杉林先生に背中を押されたものの、かなりハードルの高い試験で躊躇したんです。でも挑戦したら、結果は素晴らしく、これがあれば、自信を持って商品をおすすめできますし、営業するときも武器になるはず。20年前、東京の営業で七転八倒した苦労が報われて本当にうれしい。届いた試験証明書は、宝物のようです」
この試験結果は業界でも話題になっており、今後、鈴木靴下がジャンプアップする大きな材料になる。
それも20年以上の長い道のりでも、諦めず、粘り強く開発を進めてきた賜物だ。その強さの秘訣を聞くと、鈴木さんは少し考えて、二つを挙げた。
一つは、親から叩き込まれた「初志貫徹」の精神。勇一さんの口癖は「やることと貫くということは違う」だった。やり始めたら貫徹せよと、ということだ。
もう一つは、米ぬか成分の抽出法を教えてくれた研究者谷口さんの言葉、〈鈴木さん、最後はいいのができると思います〉である。
「やめてしまいたいと思った場面は何度もありました。でも、あの厳しい谷口先生が『できる』とおっしゃったんだから、間違いない。この言葉に何度励まされたかわかりません」
苦境に立たされたときに愚痴の一つや二つ言っていたのでは?と聞くと、妻の喜子さんは「いつも前向きで、絶対いけるみたいな感じでした。どんな局面でも“これからがスタート”って言うんです」と振り返る。その裏には鈴木さんのポジティブ思考があった。娘のみどりさんが明かす。
「まず、できると仮定するんです。それから、今できないのは何が足りないからなのかを考える。足りないものを足していくことで“できる”につなげるのが社長の基本的な考え方です」
米ぬか靴下全体の売り上げは約60万足だが、鈴木さんは「まだ何も成し遂げていないに等しい数字だ」と語る。
「これからがスタートなんです。米ぬか繊維の保湿性が証明された資料を手に、世界市場にも挑戦したい」
15年後には年商100億円という目標も掲げる。
鈴木さんは今日も4時台に目を覚まし、会社のデスクに、4時50分には座っているだろう。
「ユニクロ(代表取締役会長)の柳井正さんが5時に起床されるのを知って、自分はそれより早く起きるだけでなく、10分早く仕事場に着いて、勉強するんだと。柳井さんは能力的にズバ抜けた方だとわかっていますけれど、何かで上回れたら、何か一つぐらい抜くことができるのではないかと思っているんです」
10月に68歳を迎える。まだまだ伸び代を感じさせる遅咲き経営者は、ブレイクの予感を漂わせていた。
にしどころ・まさみち 奈良県生まれ。人物取材が好きで、著書に東京五輪出場選手を描いた『東京五輪の残像』など。2015年、中島潔氏の地獄絵への道のりを追ったノンフィクション『絵描き-中島潔 地獄絵一〇〇〇日』を上梓。
取材・文/西所正道 撮影/伊藤和幸
週刊女性2026年10月13日号

