歌舞伎町で目を光らせる“右翼のドン”阿形充規が歩んだ波乱の半生。「権力を握るのが大嫌い」新宿の愚連隊から任俠と右翼の架け橋に

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2026年10月15日 09:01  日刊SPA!

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住吉一家日野六代目 大日本朱光会名誉顧問の阿形充規氏
社長でも党首でもないのに組織も世論も動かす存在。それが“ドン”だ。彼らはいかにして頂点に君臨するのか。政界から裏社会、カルチャーまであらゆる場所に潜む“ドン”の正体に追るニュースを賑わせる“彼ら”の正体に迫る!
◆「右翼のドン」の影響力は今も健在

右翼の世界で今も絶大な影響力を持ち、半世紀も本拠の新宿・歌舞伎町で目を光らせてきたのが住吉会住吉一家日野六代目で、行動派右翼団体・大日本朱光会の創設者である阿形充規氏だ。現在は同団体の名誉顧問を務める。歌舞伎町の飲食店主が話す。

「人種も世代も入り乱れるこの街は、トラブルが多い。だから、阿形さんにお世話になっている店も多いのよ。数年前、神社のお祭りで方々との調整が難航したときも、顔の広い阿形さんが調整してくれて、うまくいきました」

第一線を退いた今も、その影響力は健在だ。そんな阿形氏が頭角を現したのは、高校入学間もない1950年代の東京・新宿。武闘派と恐れられた愚連隊「西武グループ」新宿裏社会の生き証人で、腕っぷしの強さと絶対に引かない度胸で一目置かれた。阿形氏本人が話す。

「当時のグループを束ねる豊田勝義は頭が切れ、溜まり場にしていたジャズ喫茶やクラブを仲間に分配するなど、統率力も秀でていた。ところが、驕りが出てきて配下に無心したり、学生からカネを巻き上げたりで、組織内で不満が噴出していた。

そんな折、対抗勢力の山手クラブのトップとの勝負に豊田が破れ、西武グループは瓦解。散り散りになった仲間を受け入れるために青龍会を立ち上げると、私はトップに祭り上げられたのです。昔から偉ぶったり、前に出るのが苦手な性分で、リーダーなんかやりたくなかったが、仲間を放っておくわけにはいかなかった」

◆「腕力だけでは人はついてこない」

1959年、青龍会の勢力は新宿の広範に及び、溜まり場の店からのつけ届けが主な収入源となっていたという。そのトップに立つ阿形氏は偉ぶらないので、「仲間だけでなく、地元の人からも慕われていた」(前出・飲食店主)。

「時に腕力は必要だが、それだけでは人はついてこない。当然、仲間からカネを巻き上げるようなまねは一切しない。一方で、商店主に媚びて小遣いをもらう仲間には『頭なんか下げるな』と突っぱねていました。だから、小遣いを配る正月でも、私のところだけ素通りする店主も多かった(苦笑)。『武士は食わねど高楊枝』。目先のカネを摑みにいくようなことはしない」

右翼の活動に傾倒していったのは、伝統博徒・住吉会の門下として任俠道に足を踏み入れた後のことだ。

「この世界は、親分が短刀を目の前に置いたら黙って殺ってこいということ。親分や兄貴分の言うことは絶対で、いつ命を捨ててもいいという覚悟で道を修めてきた。ただ、白鳥允之という兄貴分は、『何があっても学校だけは卒業しろ』と叱ってくれたりもした。その兄貴分が、ケンカの末に死んだ。

誰が相手か情報がすぐに入り、敵を討ちに行ったところ、『ケンカはしたが俺も殴られて、最後は握手をした。死んだと知り、葬式に行くつもりだった』と言う。相手が礼を尽くして話すので、場を収めました。我々は受けた恩義は絶対に忘れない。立場が異なっても、筋を通すならこちらも礼を尽くす」

◆任俠と右翼の架け橋に

1975年、阿形氏は民族派右翼の巨星・野村秋介氏と邂逅する。2年後、野村氏は経団連襲撃事件を起こし、阿形氏は大日本朱光会を結成。右翼に絶大な影響力を持つ野村氏だったが、1993年に朝日新聞本社で自決する。

「野村先生が経団連事件で実刑を受けたとき、『阿形さん、俺はあと10年は生きてないよ』と言われて、何とか止められないかと、民族派を牽引する大場俊賢先生(学生青年純正同盟を創設)に相談したんです。すると、『時と場合によっては命を賭してでもやらなきゃいけないことがある』と言う。随分、冷たいこと言うなって思いましたよ。

自決の一報を聞いたとき、『10年』の意味がようやくわかった。野村先生は教条的な右翼思想を説くのではなく、人間の生き方を背中で教えてくれた大恩人です」

新宿駅前で左翼系労組の演説を中止に追い込むなど、その後の阿形氏の行動派右翼ぶりは枚挙に暇がない。ついには、反目して小競り合いが絶えなかった右翼を束ねる。12団体が大同団結した「国民協議会」の設立という離れ業をやってのけ、任俠と右翼の架け橋となった。これが「右翼のドン」と呼ばれるゆえんだ。

◆異なる2つの世界で頂点に立った異色のドン

「周りが支えてくれたからです。私も各団体トップと話しましたよ。左翼活動家でも、じっくり対話を重ねるうちに右翼に転向した人が何人もいる。立場や思想が異なっても、打算や利害を捨てて、自らが誠心誠意向き合えば、思いは必ず伝わる。同じ右翼ならなおさらです」

右翼団体の中堅幹部が話す。

「若手が生意気なことを言っても、阿形先生は最後まで聞いてくれる。でも、叱られても縁が切れるなんてことはない。だから各団体の幹部はもちろん尊敬してますが、若手からも慕われる。替えの利かない存在です」
 
’05年、阿形氏は住吉一家日野六代目を継承する。

「すでに右翼活動に情熱の99%を注いでおり、総長への忠誠は変わらないが、任俠の世界へ戻る気はなかった。そもそも、トップに立って権力を握るのが大嫌い。固辞したのですが、跡目候補が不祥事で処分されてしまった。明治から続く日野一家を潰すわけにはいかない。恩義と存続のため、引き受けました。トップの重責は、周りから推されて初めて担うものです」

任俠、そして右翼。異なる2つの世界で頂点に立った異色のドンは、むしろ頂点を嫌っていた。それでも周囲が自然と彼のもとに集まり、頂へと押し上げる。だからこそ今も、“陰の実力者”として絶大な力を持っているのだ。

◆阿形氏の軌跡

1939年 東京・中野区野方に出生
1956年 16歳で新宿に出入りするようになる
1959年 高校卒業直前に青龍会を結成し、会長に就任
1973年 山口吉次郎氏のもとで正式に住吉会日野一家の一員となる
1975年 熱海の旅館・大野屋で野村秋介氏と初めて会う
1977年 野村秋介氏が経団連を襲撃。逮捕、収監される。政治結社・大日本朱光会を結成
1992年 右翼12団体が大同団結して大日本国民協議会を設立
1993年 野村秋介氏が朝日新聞東京本社で自決
2004年 住吉一家日野六代目を継承。大日本朱光会の会長を退く
2017年「社会の不条理を糾す会」の代表世話人に就任

【住吉一家日野六代目 大日本朱光会名誉顧問 阿形充規氏】
1939年、東京都生まれ。新宿で愚連隊として頭角を現し、伝統博徒の道に入る。その後、民族派右翼のカリスマ・野村秋介氏に私淑し右翼活動に転じ、1977年に大日本朱光会を創設。右翼12団体が協賛した国民協議会を発足。現在も多くの右翼団体で名誉顧問を務める

※2026年10月21日号より

取材・文/週刊SPA!編集部

―[陰の権力者[ドン]大研究]―

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