野球部存続の危機→4年で北海道大会出場 スカウト活動なしの別海高校はなぜ強豪校の仲間入り、甲子園出場を果たせたのか

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2024年03月17日 17:51  webスポルティーバ

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別海高校〜甲子園初出場までの軌跡(2)

 別海の監督に就任するや、マネージャーを含めた5人の部員を前に「3年で全道大会に出場する」と豪語した島影隆啓は、2019年秋にチームを全道──つまり、北海道大会出場へと導いた。島影が監督となったのは16年春で厳密には4年目でのことだったが、丸4年経たずしての同大会出場は有言実行と呼ぶにふさわしい快挙と言えた。

【有望な中学生が続々と入学】

 野球部の存続すら危ぶまれる状況下から、短期間で全道の舞台に立った──おそらくは、「地域の有望な選手を獲得したのだろう」という、ありきたりな憶測にたどり着く。

 だが、島影はこれまで一度もスカウト活動を行なったことがない。理由は明白だ。

「僕は指導が厳しい監督だと思っています。ですから、『この選手がいいから』という理由だけでスカウトをして入ってもらっても、辞められてしまうのがつらいんです。その代わり、うちの練習会に来てくれた子には『まだ行く高校を決めてなかったら、うちに来ない?』と誘うことはありますけどね」

 島影はスカウト活動こそしないが、別海野球部の"広報活動"は精力的に行なっている。

 ひとつに学校行脚がある。地域の中学校を回り、野球部の顧問をはじめとする教員たちに「うちの野球部は練習が厳しいですし、学校生活もしっかりしなければ叱ることもあります。それでも、興味を持ってくださるのなら面倒を見させてください」と頭を下げる。

 もうひとつが、地元の小学生を対象とした野球教室である。ここでも島影は、臆することなく「別海高校は甲子園を目指して頑張っています」と宣言している。

 島影の草の根活動によって、少しずつ地元で名の知れた中学生が別海を選ぶようになっていく。22年に別海中央中学から入学した堺暖貴(はるき)、千田涼太、寺沢佑翔(ゆうと)、金澤悠庵(ゆあん)、橋本流星もそうだった。5人は中学時代に全国大会を経験する、有望な新入部員だった。

 小学生時代に別海の野球教室に参加したことのある寺沢が、当時の様子を振り返る。

「『甲子園に行く』みたいなことを言っていたと思います。チームの先輩たちから監督の話を聞くうちに、『すごく熱い人なんだな』って思うようになりました」

 地元の高校にいる「熱い監督」に引き寄せられたのは寺沢だけではない。別海中央中のチームメイトも、「行くなら別海だよな」と示し合わせたように進学を決める。彼らが誘ったなかには、小学時代から知る野付中のキャッチャー・中道航太郎と計根別学園でピッチャーをしていた影山航大もいた。

 中道が「地区のうまい奴らが集まるから、みんなで頑張ろうと思った」と話せば、中標津から町を越えて別海の門を叩くこととなる影山も、昂揚感と覚悟が芽生えたと頷く。

「地元の高校から誘われなかったこともあるんですけど、自分はレベルの高いチームで野球をしたいって気持ちがずっとありました」

【外部スタッフとの共同作業】

 島影が打ち出す「甲子園」とは、熱量の表れだけではなく根拠も備わっている。

 信頼できる外部スタッフの存在だ。

 別海には、おもにバッティングを担当する小沢永俊、ピッチング担当の渡辺靖徳。内野守備やバッティング、体のケアと幅広く担当する大友孝仁、北見市で治療院を経営する佐々木護は選手のコンディショニングを担う。皆、島影が武修館高校にいた頃からのつき合いだ。

 高校時代の教え子でもある大友が、外部スタッフと島影との関係性をこう話す。

「監督は基本的に『思うようにやってください』というスタンスなんです。僕は教え子という立場ではあるんですけど、スタッフみんなを信頼してくれていますよね」

 島影とは「指導する」以上に「指揮する」監督でもあるのだ。いわば、プロデューサーという一面を印象づかせる。

 人を動かすことについて、島影はこのような持論を持っている。

「監督のなかには『全部をひとりで指導したい』という方もいるでしょうけど、自分にはそんな能力がないので。専門知識に長けた方たちと協力しあって、任せるところは任せる。その過程でそれぞれの担当としっかり話して、最終的に自分が一本化させる。それでチームを同じ方向に導ければいいと思っています」

 島影とスタッフたちによる共同作業によって化けた代表格に、堺がいる。

 別海中央中では金澤がエースで、堺はファースト兼3番手ピッチャーだった。そのことから、島影も当初は野手として一本立ちさせるつもりでいたが、ピッチング担当の渡辺からの助言により方針を一変させた。

「堺はピッチャーとして絶対によくなるよ」

 渡辺が島影に進言した裏側を明かす。

「まずはしっかりした体型で、姿勢がよかったんです。それと、堺はもとから腕が横から出てくるタイプでした。ボールもストレートがナチュラルにシュートして、スライダーも横滑りするような軌道だったので、面白いなと思っていたんです。実際に試合で投げさせてみたら相手バッターも打ちにくそうな反応をしていたんで、やっぱりなと」

 これらの要素に加え、堺はランニングやウエイトといった基礎的なトレーニングから、「たくさん食べる」といった地道な作業を黙々とこなせる選手という点でも渡辺の評価を高めた。入学当初は115キロだった球速は、1年が経つ頃には130キロほどまで飛躍し、身長180センチ、体重も80キロ近くと体型も比例して大きくなっていた。

【強固なセンターラインが確立】

 高校に入学した時点で、堺は「ピッチャーをやるとは思っていなかった」と言う。それが、自分の新たな一面と出会ったわけだ。

「体がどんどん強くなっていくのを感じていましたし、1年生の冬が終わる頃には球速と球の質が上がったと実感できました。ピッチャーとしての能力を見出してくれた渡辺さんや監督には、本当に感謝しています」

 最低気温が0度未満の日が年平均で半年以上の厳しい別海町の冬が明け、春が訪れる頃には、チームの方針は固まっていた。

「将来的に堺が投手陣の軸になる」

 チームの土台が、固まりつつあった。

 1年生の夏から4番を打つ中道は、扇の要として確立しつつある。中学までピッチャーが主戦場だった影山も、1年の夏からチームで手薄だったショートに本格転向した。実家が牧場を経営していることから野球部で唯一、酪農経営学科に在籍。平日は実習など多忙で、全体練習は半分しか参加できない日が多かったが、その分、「自主練習では守備に全振りしていました」というほど守備を鍛えた。

 練習パートナーだった千田との二遊間の連携は洗練され、中学から安定した守備に定評のあったセンターの寺沢がいることで、強固なセンターラインが確立された。

 軌跡が物語る。

 堺たちの世代は、別海中央中のメンバーがそのままチームの柱となったわけではない。個々が自分を知り、監督やスタッフたちと地道に進む。牛歩のようにゆっくりだとしても、別海はたしかな成長の足跡を残していく。

つづく>>

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