35km競歩の世界新記録をマークした川野将虎(26、旭化成)へのインタビュー後編。10月27日に山形県高畠市で行われた日本選手権35km競歩兼全日本競歩高畠で、川野は2時間21分47秒の世界記録で優勝し、来年9月開催の東京世界陸上代表にも内定した。東洋大3年時に50km競歩の日本記録をマークし、21年東京五輪50km競歩に出場。翌22年から50km競歩が35km競歩に変更になったが、川野は22年の世界陸上オレゴンで銀メダル、23年の世界陸上ブダペストでは銅メダルと連続メダルを獲得。パリ五輪の個人種目は20km競歩だけの開催になったため、男女混合競歩リレーに出場し岡田久美子(33、富士通)とペアを組んで8位に入賞した。
国際大会での成長の足跡を、川野と酒井瑞穂コーチに振り返ってもらった。
――過去の国際大会を中心に、成長過程を振り返っていただきたいのですが、歩型という点で大きな出来事がありましたか?
酒井瑞穂コーチ:19年にナポリ(イタリア)で行われたワールドユニバーシティゲームズ20km競歩(2位)が、歩型についてしっかり考えて臨んだ大会です。3月の全日本競歩能美大会の20km競歩で1時間17分24秒(日本歴代4位)を出しましたが、その後の連戦(4月に日本選手権50km競歩で2位、当時日本歴代2位の3時間39分24秒)で疲労が出てしまい、5月の関東インカレ10000m競歩は初めて失格をしてしまいました。川野は泣きながら反省して、ワールドユニバーシティゲームズに向けてフォーム修正に取り組みました。期限が決められている中で銀メダルを取ったことは評価できます。こう歩けば失格になって、こう歩けば国際大会で勝負できる、とわかった2カ月になったと思います。
――その3か月半後には高畠の50km競歩で3時間36分45秒の日本新を出して優勝し、東京五輪代表を決めました。1年延期になって札幌で行われたオリンピックでは、6位(3時間51分56秒)に入賞しました。
川野:夏の50km競歩に向けて科学的なサポートも受けてしっかり準備は行いました。しかしレース前日の夜に眠れなくなってしまったんです。20km競歩を見たことでプレッシャーを感じてしまいました。初めてのシニアでの国際大会、それもオリンピックということで自分の気持ちがコントロールできませんでしたね。ほとんど眠れずに当日の朝を迎えて、内臓の調子が良くなくて、それに加えて暑さの影響もあり、レース中の給水も全然飲めない状態でした。国際大会に向けての気持ちの作り方という面で、甘かったと痛感しました。
――41km過ぎに一度倒れ込んでしまいましたが、すぐに起き上がって2位集団に追いつき、6位入賞を果たしました。倒れたときに地面を叩いて悔しがっていたことが印象に残っています。
川野:倒れ込んだのはメダル争いになったとき、吐き気に襲われたこともありましたが、急に怖くなって体が反応してしまいました。本能的にメダル争いをするプレッシャーから逃げていたのだと思います。倒れた瞬間に、自分は何をしているのだろうと冷静になって、そんな自分の弱さに腹が立って地面を叩きました。メンタル面のコントロールの難しさがわかった大会でした。弱さを自覚できたことと、あきらめずに集団に追いついたことが、その後の2大会連続メダル獲得につながったと思います。マイナスの経験でしたが分岐点になった大会でした。
――翌年(22年)は4月に35km競歩の初代日本選手権者になり、オレゴン世界陸上35km競歩は銀メダルでした。東京五輪のように緊張しすぎるようなことはなかったのですね?
川野:オレゴンでもレース前日は3時間くらいしか眠れなくて、朝食ものどを通りませんでした。瑞穂コーチから「川野にはたくさんの人が関わってくれて、最善の準備をしてきたのだから、1人でレースをするわけじゃないんだよ」と言われました。
|
|
酒井瑞穂コーチ:後ろにみんながいる、1人で歩くんじゃないから、と話しましたね。
川野:そういう考えをしたら自分の中で腑に落ちる感じがして、レースに向けて戦うモードに入ることができました。それプラス、自分の緊張状態のコントロールが少しできるようになっていたのだと思います。心理学的なアプローチにも取り組み始めたり、血糖値をモニタリングできる計器も活用したりしていました。それも国際大会の成績が安定することにつながっていると思います。
――翌23年のブダペスト世界陸上35km競歩では銅メダルでした。
川野:ブダペストでは気持ちのもって行き方が違いました。心理学の専門家の方、東洋大の酒井俊幸監督、瑞穂コーチ、マネジャーたち周りのスタッフが、自分の感覚優先でやれるように配慮してくれたんです。それでリラックスした気持ちで臨むことはできたのですが、逆に闘争心が足りなくなってしまいました。
酒井瑞穂コーチ:リラックスして、ゆったりした気持ちで臨もうと話しました。自分を誉めるくらいでもいいんじゃないか、と。しかし川野の場合は逆効果だったようです。3人になったときに、メダル確定だからいいと安心してしまったんですね。後になって、闘争心がなくなったと本人もわかったようです。
川野:ブダペストは過緊張をすることなく、リラックスした状態で臨むことはできましたが、闘争心、集中力という部分では東京とオレゴンの方が高かったですね。試合で戦うことを考えたら、良い緊張をすることも必要な要素だとわかりました。今回の高畠ではラスト7kmで、ここで行き切るんだ、という強い気持ちをもって行きました。ここで怯んでいるようでは、代表権を掴んだとしても世界陸上では勝てないと思って、熱い闘争心を持って歩いたんです。オリンピックの前に2通り、リラックスして臨むか、緊張して闘争心を燃やしていくかをやってみたことで、パリ五輪や今回の高畠につなげられと思います。
|
|
――世界のトップで戦うことが徐々に、普通に感じられるようになってきたわけですね?
川野:オレゴンの世界陸上35km競歩が一番大きかったですね。東京五輪の20km競歩金メダルのスタノ選手と1秒差の銀メダル。初めてのシニア国際大会のメダル獲得です。それを達成した瞬間、自分も世界で戦えるんだ、と強く感じられました。それと同時に35kmの距離を歩いても1秒差で、金と銀という大きな違いが出ることも身をもって知ることができました。
――世界のトップで戦うスキルとメンタルを身につけられた?
川野:21年の東京五輪から22年の世界陸上オレゴン、23年の世界陸上ブダペスト、24年のパリ五輪と、4大会連続で入賞以上の成績を残すことができました。一度も入賞を逃していないのは、大学時代から瑞穂コーチのもとで国際大会に向けてどういう準備をしていくのがいいか、そういう取り組みを積み重ねてきたからです。パリ五輪後も同じように、歩き込みもしましたし、よく食べて、よく寝て、よく練習して、大きなケガもありません。それが競歩の基本だと思っています。そういう姿勢を持って競技をしていけば結果がついてくる。今はその自信を持ってレースに臨めています。
酒井瑞穂コーチ:私だけでなく周りのサポートも大きかったと思います。練習拠点の東洋大が指導者も含めて練習環境を整え、所属チームの旭化成が支援する体制が上手く機能しています。特に国際大会のメダリストを何人も輩出してきた伝統のある旭化成に所属している安心感が、川野の中に確実にあります。
――早い段階で内定したことはどう捉えていますか。
川野:高畠の時期に決められたことは、本当に良かったと思います。あと1年弱準備期間があることはアドバンテージです。それを世界陸上の舞台で生かせるように準備していきたいと思います。具体的にはこれから決めていきますが、高畠で代表入りを決められなかったら来年3月の全日本競歩能美の35km競歩に出なければいけませんでした。それがなくなるので、もしも狙えるのであれば、状況を見ながら20km競歩にもチャレンジしてスピードに対応できるようにしていきたいです。
――来年の東京世界陸上は、どんな大会としたいですか。
川野:今回世界記録を出しましたが、それはスタートラインに過ぎないと考えています。世界記録保持者として外国勢にもマークされたり、周囲から世界記録保持者として見られるプレッシャーもかかる立場になったりしますが、世界の強豪と戦っていくんだ、というマインドは変えず、あくまでチャレンジャーとして戦っていきたいと思っています。東京五輪から5シーズン連続の世界大会になりますが、東京世界陸上は特別な思いもあります。トレーニング面でもメンタル面でも、今まで積み上げてきたものをぶつけて、1つの集大成のような感じで迎えられるレースになればいいな、と思います。
|
|
(TEXT by 寺田辰朗 /フリーライター)