51番を追いかけて〜記者が綴るイチロー取材の日々(前編)
マリナーズ球団会長付特別補佐・イチロー氏が日米での野球殿堂入りを果たした。2つの野球大国で、ベースボールプレーヤー最高の栄誉を手にした者は初めて。そんな"生ける伝説"を長らく追い続けたベテラン記者が、イチロー取材を振り返った。
【イチローの取材は秘境探検】
1994年に通信社のオリックス担当記者に就いて以来、イチロー取材はもう30年になる。
今も昔も、よく尋ねられるのは「イチローってどんな人?」や、「イチローの取材はどんな感じなの?」だ。そんな時、「"秘境探検"みたいなもの言えばいいのかな......」と答えるようにしている。アウトドアな趣味とは無縁で、本物の冒険なんて考えたこともない自分がなぜそう返すのか。それは今でもイチローに話を聞くたび、なにがしかの発見がある気がするからだ。
誰も足を踏み入れたことがない場所に行ってみないと、そこに何があるかはわからない。未開地に足を運び、そこで何を見たかを伝えるのが探検家の仕事なら、イチロー取材記者はまさにそれと同じじゃないか。いまなおミステリアスなイチローに直接会って言動に触れ、理由を聞く。そして得た情報を読者にわかりやすく知らしめる......と、いきなりカッコつけてみたが、自分の"秘境探検"は最初からひどいものだった。
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忘れもしないのは1994年の初夏、ある地方球場でのゲーム後に強烈なひと言をもらったことだ。あの日は仰木彬監督のぶら下がり取材を終えて記者席に戻る途中、ベンチ裏で帰り仕度中のイチローと出くわした。あの年、かつてない勢いでヒットを打ちまくっていた1番バッターは最重要取材対象。その時たまたま、周りに他社の記者はいなかった。
めったにないチャンスだ。「何か聞かなきゃ」と焦りつつ、彼が試合前の打撃練習時にだけ右足に装着するプロテクターが視界に入った。
「あれっ、今日はどうして(試合で)着けてなかったの?」
とっさにそう口にした瞬間、「なんだ、おまえは?」みたいな険しい顔で一喝された。
「いつも何見てんですか。試合じゃ着けたことなんかないでしょ」
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あっ、やらかした......。後味の悪さと何も言い返せない間抜けな記者を置き去りにし、イチローはすたすたとチームバスに乗り込んでいった。
「昨日はすいませんでした。これからはしっかり見ます」
翌日、イチローがフィールドに現れると真っ先に謝りに行った。すっかり前夜の出来事を忘れていたのか、彼はキョトンとした顔で「え? ああ......」とだけ言い残し、さっそうと外野に走っていった。
あの夜の出来事を思い出すと今でも顔が熱くなるが、その一件でそれまで以上にイチローへの興味が強くなったのも確かだ。まだ高校生のようなあどけなさが残る20歳の青年が、7歳も年上の記者をためらいなく叱る。どんな人なのかをもっと深く知りたくなった。
【2人きりで行った老舗喫茶店】
1対1で話を聞く。その回数をできるだけ増やす。これが自分の仕事の基本と思っているが、その前には対象との心理的な距離を縮めないといけない。よく知らない相手に聞かれたことを正直に話す人なんて、実社会にはめったにいない。むしろ付き合ってすぐ何でも洗いざらい話してくれるような人には、何か別の意図があると勘ぐったほうがいい。
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だいたい、メディアから注目されるような人物は警戒心が強く、簡単に心を開いてはくれないものだ。
実際、オリックス球団担当だった1995年までの2シーズンで、イチローと1対1で話したのはプロテクターの一件を含めて4、5回あったかどうか。その会話内容もごく些末なものだった。そんな"その他大勢"のひとりだった自分が、最重要取材対象との心理的距離を狭めていく感触を得たのは、オリックス担当を離れてからの数年間だった。
1995年12月に東京へ転勤。新しい部署では比較的、勤務時間の融通が利いた。そこで関西方面に出張した時は、できるだけ神戸や大阪まで出向いて試合前やナイター後のイチローに声をかけるようにした。オリックスが千葉や東京で試合をする時も、時間を工面して顔を見に行った。転機は1999年9月、オリックス選手寮・青濤館(せいとうかん)を訪ねた時だった。
その頃のイチローは、8月後半に右手首に死球を受けた影響で戦列離脱中。チームも遠征に出たままで、寮内の室内練習場は閑散としていた。ダメもとで、あてもなく待つこと数時間。すると自販機で何か買おうとでもしたのか、ひょっこりイチローが自室から降りてきた。
「あれ? 何してんですか」
「いや別に、どうしてるのかな、と思ったから......」
他愛もない雑談を数分。そして、こんなところで話すのも何だから、お茶でも飲みに行きますか、という流れになった。練習場や球場の外で2人きりになったのは、その時が初めてだった。
「ここのパフェで使っているのはアイスクリーム? それともソフトクリームですか?」
神戸・北野坂近くの老舗喫茶店で、イチローがウエイトレスにそんなことを尋ねていたのを思い出す。だが結局、彼がオーダーしたのは厚切りトースト。
「不思議なこと聞くんだな......」
内心でそう思ったことは覚えているが、その後、何を話したかは全然記憶にない。ただそこで、ますますイチローの人となりに興味が湧いた。その日以降、球場外で会う機会は増えていった。
もともと自分が通信社の記者になりたいと思ったのは、海外で好きなスポーツの取材をしたいという夢があったからだ。今では世界規模で多くの日本人アスリートが活躍中で、彼らを追う現地在住の日本人メディアも増えた。だが自分が記者になる少し前くらいまで、海外にスポーツ担当を駐在させているメディアは通信社くらいしかなかった。
再び野球担当に戻ったのは1998年。そして2000年の春、入社以来の念願だったアメリカ駐在を内々に命じられた。その数カ月後、オリックスがイチローのポスティング制度によるMLB挑戦を認めた。偶然にも夢だったアメリカでの取材で、最も興味深い選手に再び担当記者として付き合えることになった。
(文中敬称略)
つづく>>