セーブ制度導入50年〜プロ野球ブルペン史
岩瀬仁紀が日本一のクローザーになるまで(中編)
2001年オフ、中日は横浜(現・DeNA)からFAの谷繁元信を獲得する。実績十分の捕手の加入はチームにとって有意義な補強だったが、正捕手の中村武志にとっては死活問題。出場機会を求めて他球団への移籍を志願したところ、横浜との金銭トレードが成立し、結果的に正捕手同士が交換される形となった。
ただ、捕手にもタイプがある。単なる交換ではなかったことを、当時、中日のブルペンを支えていた岩瀬仁紀は実感する。谷繁の「存在感」によって「本当にコントロールがよくなっていった」と言うのだが、どのような違いがあったのか。新たに山田久志が監督に就任した02年も、中継ぎで活躍した岩瀬に聞く。
【中日投手陣を変えた谷繁元信の加入】
「中村さんは絶対にピッチャーに怒らなかったんですけど、谷繁さんはキチッと投げないと怒るんです。『なんでキッチリ投げねぇんだ?』っていうぐらいの感じで言いますから、ピッチャーとしては苦しいですよ。苦しいんですけど、じゃあ、コントロールよくしなきゃ、というのもあったと思います」
当然ながら、谷繁はほかの投手にも制球力の向上を求めた。横浜時代は捕手出身監督の大矢明彦に徹底指導を受け、権藤博が監督となった1998年は司令塔としてチームを牽引し、リーグ優勝、日本一を経験。その中心にいた抑えの佐々木主浩も抜群にコントロールがよかっただけに、中日投手陣への谷繁の要求は説得力があったはずだし、勝つためには必然だったと言えよう。
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「自分自身、中村さんが受けていた時は、どちらかと言うと『ボールの勢いで抑え込んでしまえばいい』っていう感じで投げていました。そこに谷繁さんが来て、自分も年齢が30近くなってくる時でしたから、勢いだけで抑えられるほどプロ野球界は甘くないと感じ始めていて。シフトチェンジする時とちょうど合ったのかな、というところはあります」
もうひとつ、岩瀬の制球力が向上した要因は、谷繁と組むなかで外からのスライダーを覚えたことだった。いわゆる"外スラ"は右打者の外角ボールゾーンからストライクになる球だけに、打者が一瞬「ボールだ」と思ってくれないと甘いボールになってしまう。ゆえに向上を強いられたのも同然だった。では02年、キャンプから何か変えたことはあったのか。
「いや、変えたことはないですよ。でも、結局はまず真っすぐがキチッとコントロールできないと、ということにあらためて気づかされましたね。変化球はボール球を振ってくれますけど、真っすぐはラインがずれただけでバッターは振ってくれないですし、高さもキチッとコントロールされてないと『ボール』って判断される。
ということは、真っすぐってストライクゾーンで勝負しないといけないんですよ。だから、甘いところに投げなきゃいいっていう感覚で投げられる変化球と違って、真っすぐの精度だけは落としちゃいけない。じゃあ、どうしたらコントロールがよくなるか。徹底的に投げ込んで、体に覚えさせるしかないんです。実際、それをやっていったら、だんだんよくなりましたから」
【先発をやりたい気持ちがなくなった】
02年の岩瀬は59回2/3を投げ、失点はわずか8(自責7)で防御率1.06。03年も63回2/3を投げ、10失点で防御率1.41を記録し、自身3度目となる最優秀中継ぎ投手賞を獲得。谷繁加入効果の表われと言えそうだが、03年オフ、山田が監督を退任し、新たに落合博満が就任する。04年2月のキャンプイン前日、ミーティング後、突然、宿舎の部屋に落合が来て言った。
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「おまえ、先発やりたいらしいけど抑えな」
新監督がいきなり来て、それだけ言って去っていくという行動に驚かされた岩瀬だったが、「抑え」指令はその場で受け入れていた。
「そこで初めて先発をやりたい気持ちがなくなって、リリーフで生きていくって決めたんです。抑えとなる以上、チームの勝ち負けを一気に背負うことになるので、相当な覚悟が必要だなと。屋台骨じゃないですけど、自分が舵を取らなきゃいけないなという心境になりましたね。チームを支えていくことになるので」
プロ入り以来、5年連続50 試合以上登板、防御率1点台が4度──。「この数字を見たら、岩瀬以外の誰が『抑え』をやるんだ」と落合は言った。
岩瀬にとって04年は30歳となるシーズンだったが、新たなポジションに意識高く取り組んだ。キャンプでの調整法は変えず、気持ちの持ち方だけが変わると自覚して臨んだ。ところが、開幕直前のケガの影響で序盤は不調。
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6月頃から本調子を取り戻し、8月にはアテネ五輪に出場して不在の期間もあった。そのため04年は60登板で22セーブという数字だったが、落合中日として初のリーグ優勝に貢献。打線は得点力がなかったぶん、リーグ一の質を誇った投手力と守備力でカバーした。そのなかで抑え1年目の岩瀬自身、中継ぎとの違いに戸惑うようなことはなかったのだろうか。
【中継ぎと抑えの違い】
「違うのは同点の場面ですかね。中継ぎの時は同点で自分が抑えると、もしかしたら勝ちがつくという思いがあった。でも、抑えになると勝ちはいらないわけで。自分が締めてゲームが終わることに慣れてしまうと、同点の場面が投げづらくなる。セーブシチュエーションは攻めの気持ちがすごく出るんですけど、同点だとどうしても、守りに入りたがってしまう。
ピッチャーって、守りに入ると弱くなるんです。だから投げづらくなるんですけど、同点で12回裏、自分が点取られれば負け投手じゃないですか。で、抑えても何のメリットもないですから、ピッチャーとしては。だからそこを引き分けで終わるって、メンタルとしては一番難しいところで、すごいことなんですよ。でも、それを表立って誰もわかってくれないっていう(苦笑)」
見ている者にはわからない、大きな違いが明かされた。抑えが同点の場面で登板するケースは多くはないが、だからこその難しさもあるだろう。岩瀬の場合、中継ぎの時代が長かったから、なおさら違いを実感したのではないか。そもそも当時の中継ぎは"回またぎ"も普通のことだったから、その点でも、1イニング限定の抑えとの違いは大きかったことだろう。
「抑えになって、逆にそこは助かりましたよね。1イニングを抑えることに集中できるので。抑えで"またぎ"をするのは、優勝争いの終盤とCSのときだけでしたから。実際、このまま中継ぎをやってたら長く続けられない、という気持ちもあって、常に先発に行きたかったんじゃないかと。だから、僕が長くできたのは逆に抑えになったからかな、と思います」
岩瀬が「逆に」と繰り返す裏には、抑えの大変さがあり、抑えを10年以上続けられる投手が希少という事実もある。現役生活20年の投手ならではの言葉だが、05年の岩瀬はシーズン46セーブの日本記録(当時)を樹立。これは"大魔神"こと佐々木主浩(横浜)の45セーブ(98年)を超えるもので、初めて記録を意識しながらマウンドに上がったという。
「記録だけでも佐々木さんを超えたい、という気持ちはありました。抑えといったら大魔神なので、その記録を超えたら自分も自信を持てる......じゃないですけど、そういった感覚はありました」
佐々木を超えた05年は最多セーブ投手賞を獲り、57回1/3を投げて被本塁打ゼロの防御率1.88。06年も40セーブを挙げ2年連続で同タイトルに輝き、落合中日2度目のリーグ優勝に貢献。この頃にはもう抑えとして十分に自信を持ち、意欲満々で登板していたのではないか。
「いや、そういったことはないですね。常に投げたい、とは思わなかったです。球場に行く時、行ってからも、できることなら今日は投げたくないな、と思ってましたね」
(文中敬称略)
つづく>>
岩瀬仁紀(いわせ・ひとき)/1974年11月10日、愛知県生まれ。西尾東高から愛知大、NTT東海に進み、98年のドラフト会議で中日ドラゴンズを逆指名し2位で入団。入団1年目の99年シーズン途中から勝ちパターンの一角を担い、最優秀中継ぎ投手賞を受賞。その後も中継ぎで起用され、2004年からは抑えとして5年ぶりの優勝に貢献。07年の日本ハムとの日本シリーズの第5戦において、8回まで完全試合ペースの好投をしていた山井大介に代わり9回に登板。三者凡退に抑えてNPB史上初の継投による完全試合を達成。12年にはセ・リーグ史上最多の5度目、また最年長記録となる最多セーブのタイトルを獲得。18年9月28日の阪神戦でNPB初の1000試合登板を達成し、同年現役を引退。19年からは野球解説者として活動。25年に野球殿堂入りを果たした