
「希少がん」と闘う元大阪桐蔭・福森大翔の告白 全4回(第2回目)
第1回>>大阪桐蔭「森友哉世代」の主力・福森大翔が語る希少がんと闘う壮絶日々
デリケートな話題にも、柔らかな口調で丁寧に応じる福森大翔。大阪桐蔭の指導者たちが語る福森評は、「真面目なヤツ」「いいヤツ」「けっこうしゃべれるヤツ」といったものだが、その語り口からも彼の人柄が伝わってきた。
よく食べ、趣味のように体を鍛えていた社会人2年目には、体重が自己最高の104キロまで達した。それが3度の手術を経て、現在は75キロ。とはいえ、身長181センチの上背にほどよくバランスが取れ、色白の小顔も相まって、どこか大阪桐蔭野球部出身という肩書きが不釣り合いにも感じられる。
【大阪桐蔭への憧れ】
そんな福森に、炎天下のグラウンドを駆け回っていた青春時代の思い出を尋ねてみた。
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「ラグビー少年だったんです」
福森の野球人生の振り返りは、まずこの言葉から始まった。
1月に阪神・淡路大震災が起きた1995年の夏、福森は大阪で生まれた。父はラグビーの強豪・啓光学園(現・常翔啓光学園)出身で、大阪体育大、社会人の京阪百貨店でも活躍したラガーマン。その影響もあってか、ひとりっ子の福森は幼少期から近所のラグビースクールに通った。だから福森の傍には、いつも楕円形のボールがあった。
それがある時、保育園からの幼馴染に誘われ野球チームの練習に参加すると、その日を境に相棒は白球へと代わった。
「特に投げるのが面白かったんです。ラグビーのパスは下からなので、上から思いきり投げられるのが楽しくて。小学3年から新森ヤローズというチームに入って、そこからは学校のソフトボールもありながら、毎日投げて、打って......。父はちょっと寂しかったみたいですけど、僕のやりたいことを応援してくれました」
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小学4年の時、祖父に連れられて初めて甲子園大会を観戦。そこで見たのが、平田良介(元中日)が1試合3本塁打と凄まじい活躍を見せた2005年夏の準々決勝、大阪桐蔭と東北(宮城)の一戦だった。
「あの時の応援も含めた甲子園の雰囲気、熱気に圧倒されながら、とにかく大阪桐蔭の選手がカッコよくて。『絶対ここでやる!』ってなったんです」
この年の大阪桐蔭は、4番・平田、エース・辻内崇伸(元巨人)に"スーパー1年生"の中田翔(現・中日)を擁し、ベスト4進出。ここから全国の強豪へと上り詰めていく大阪桐蔭の強さとスケールに魅せられた。
小学6年からは硬式クラブチームの都島ボーイズの小学部に入部。都島ボーイズは中学部もあり、そこから平田や浅村栄斗(楽天)らが大阪桐蔭に進んでいた。
中学部へ上がった夏、今度はチームのOBである浅村の応援で甲子園へ。あいにく、雨のために観戦した試合は1回途中で中止となったが、大阪桐蔭の1番を務めた浅村はこの大会、通算29打数16安打、2本塁打の活躍でチームを全国制覇へと導いた。
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そんな先輩の活躍に、福森の気持ちはますます大阪桐蔭へと傾いていった。
【3連覇がかかった選抜でまさかの結末】
中学3年時はチームの3、4番を打ち、ポジションは捕手。同じボーイズリーグには、やはり強打の捕手として名を馳せていた森友哉(オリックス)がいた。お互いのことを認識していたふたりは、中学3年になって初めて試合をし、結果は福森たちのコールド負け。
「一方的にやられたんですけど、トモ(森)はバッティングもキャッチャーとしてもすごくて、最後にはマウンドにも上がって......また投げるボールが速くて。『なんやコイツ、えげつな!』と思っていたら、大阪桐蔭に行ったらいたんです(笑)」
実際、大阪桐蔭に入学すると"捕手・森"の壁は限りなく高く、それとは別に当時の福森は以降も長く悩まされることになる腰痛を抱えており、医者からは「捕手は厳しい」と言われていた。そんなこともあり、入部まもなく一塁へコンバート。そして2年春からは外野を守ることになった。
新チームになると「5番・ライト」からスタートし、3年春の選抜では前を打ってきた近田拓矢が故障したために4番を任されることになった。
チームは春・夏・春の3連覇がかかっていたが、2回戦で県岐阜商に4対5と惜敗。最後の打者になったのが福森だったが、この試合のゲームセットの場面を覚えている高校野球ファンは少なくないだろう。
1点を追う大阪桐蔭は9回裏、二死二塁から福森が放った打球はゴロとなり、前進守備のセンターの前に転がった。打球が飛んだ瞬間、二塁走者の峯本匠は迷うことなく本塁を狙った。しかし、センターからの好返球を捕球した捕手がベース前で待ち構えていた。次の瞬間、「負けられない」という思いが爆発した峯本は、頭から捕手に突っ込み体当たり。その勢いでボールは捕手のミットからこぼれたが、主審は即座に守備妨害を宣告し、ゲームセットとなったのだ。
「あの場面を思い出す時、僕のなかでもうひとつの記憶が蘇るんです。あの試合、トモがふくらはぎの筋断裂でゲームには出てなかったんです。それであの打席に入る前にトモが僕のところに伝令に来て、『ここで打ったらヒーローやぞ!』と言って、頬っぺたをギューっとつねって、緊張をほぐしてくれたんです。
それで当たりはよくなかったけど、センター前に抜けてくれて『よっしゃ! 同点でもヒーローや!』と思って振り返ったら、峯本が空を飛んでいました」
【サヨナラ安打でお立ち台に】
12年前の記憶をたどる回想は、熱のこもった言葉に乗って、春から夏へと舞台を移しながら続いていった。
「夏は、大阪大会に入る前からチームの雰囲気が悪かったんです。選抜後の春の大阪大会で履正社に負け、夏に向けて気合は入っていたんですけど、練習試合でも乗り切れない戦いが続いていたんです。大会前最後の練習試合でも、奈良の公立校に負け、みんなストレスが溜まっていたんでしょね。
大会初戦の前日の夜、寮で選手たちだけで集まってミーティングをしたんです。そこでしょうもないことから揉めて、けっこう荒れたんです。もともと"お山の大将"の集まりなんで、『なんでおまえにそんなこと言われなあかんねん!』みたいな感じが続いて、『こんな状態で戦えるんか?』『大丈夫か?』と、最悪の雰囲気で大会に入ったことを覚えています」
実際、大阪大会は序盤から際どい試合があった。なにより、福森自身の調子が上がらず、当時のスコアを確認すると、準決勝までの6試合で17打数1安打。大会序盤は5番を任されていたが、最後は7番に降格していた。
「ほんとにバッティングが悪くて、準決勝が終わったあと、西谷(浩一)先生に『決勝は代えてください』って言いに行ったんです。そしたらめちゃくちゃ怒られて。『期待するものがあるから、おまえを使ってるんや。そもそも力がなかったらメンバーにも入れてない。それをそんな気持ちで試合に出て、メンバーから外れたヤツがどう思うか考えてみろ!』って」
自らの甘さに気づかされ、気持ちを入れ替えて挑んだ履正社との決勝戦。2回にレフトフェンス直撃の先制タイムリーを放ち、最大のライバルに雪辱を果たした。甲子園出場を決めた直後、場内へ向けたインタビューを森と並んで受けたことは、今も記憶のなかに色濃く残る青春の思い出だ。
「あの時はほんとにうれしかったです。甲子園を決めた感動というより、とにかくうれしくて。僕もトモも、涙より笑顔でした。負けられないプレッシャーもありましたし、大会前はいろいろあったけど、最後にみんなと喜びあえた。たぶん、『野球ってすごいなぁ』と思った笑顔だったと思います」
そして甲子園では、2回戦の日川(山梨)との試合でサヨナラヒットも経験した。選抜では逃したヒーローとなり、試合後の取材ではお立ち台にも上がった。
「3対3の延長10回裏。ワンアウト一、三塁の場面で、西谷(浩一)先生からまさかのエンドランのサインが出たんです。今でも西谷先生に会うと、必ずこの話が出ます。相手ピッチャーは190センチ超えの右投手で、真っすぐに力はあるけど、けっこう抜けるタイプだったんです。それに対して、僕のバッティングもまだしっかりバットが出ていない感じだったんでしょうね。だから積極性を出させ、しかも叩きつけないといけないということで、エンドランだったみたいなんです。
ただボールは、避けたくなるようなところに来て......エンドランじゃなかったら絶対に振らないボールを打ったらどん詰まり。『やばい!』と思いながらも気持ちで押し込んだら、ライト前にポトンと落ちてサヨナラになったんです。病気になってからもこの話を西谷先生としたことがあって、その時にこう言っていただいたんです。『あれだけどん詰まりの当たりがヒットになるんやから、おまえは何か持っている。だから(病気も)大丈夫や!』って」
高校時代の思い出を振り返ると、時には逃げたくなる現実から一瞬離れることができるのだろう。野球を語っている時の顔は明るく、生き生きとしている。今も気持ちが落ち、弱気の虫が現れそうになると、フラッと大阪桐蔭の練習グラウンドを訪ねたくなるという。
「最後に行ったのは今年の2月。治療の帰りでした。あそこに行くと、ほんとパワーをもらえるんです。先生たちと話をして、グラウンドの空気を吸うと『よしっ、また頑張ろう』っていう気になる。その時、(部長の)有友(茂史)先生は『ボロボロになってもええ。最後に1点でも上回ったらええんや。(病に)勝てよ!』と。ちょっとネガティブな気分の時だったんで、響きました。
高校の時もいろんな言葉に救われ、力をもらってきました。もう一回、高校時代に戻りたいかと聞かれたら簡単には答えられないですけど、あの3年間がなかったら、今これだけ踏ん張れてたんかな、と。僕のこれまでの人生のなかで、一番濃い時間だったのは間違いないです」
福森は近々、またパワーをもらうためにグラウンドを訪ねたいと思っている。
つづく>>