【カーリング】ロコ五輪消滅…当たり前じゃなかった戦い「私たちを褒めたい」吉田知那美

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2025年09月13日 20:35  日刊スポーツ

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ロコ・ソラーレ対フォルティウス フォルティウスに敗れたロコ・ソラーレ藤沢(右)ら(撮影・前田充)

<カーリング:五輪最終予選代表決定戦:ロコ・ソラーレ2−7フォルティウス>◇13日◇女子タイブレーク◇稚内市みどりスポーツパーク



五輪2大会連続メダルのロコ・ソラーレが、26年ミラノ・コルティナ五輪出場を逃した。タイブレークでフォルティウスに2−7で完敗。目標に掲げた、半年後の「五輪金」への道は途切れた。22年北京五輪の代表決定戦は2連敗から3連勝。だが4年後の今回は2連勝から3連敗し、すがすがしく涙を流した。12月の五輪最終予選(カナダ)の代表はSC軽井沢クラブとフォルティウスが争う。


   ◇   ◇   ◇


1点取った。笑った。その瞬間、26年五輪への旅が終わった。6点差を追いかける第6エンド(E)。有利な後攻でわずか1点。いさぎよく負けを認めた。4人は顔をつきあわせ、泣いた。スキップ藤沢は「勝ったり負けたり…。これがカーリング」。北京行きを決めて喜んだ4年前とは違う。すがすがしい涙だった。


得意の逆境を覆せなかった。第1Eで3点を奪われ、第4、5Eでも2失点。差は広がり続けた。前回は、この日の相手に2連敗から大逆転。今回は、2連勝から3連敗。真逆になった。司令塔は「フォルティウスが素晴らしいパフォーマンスをした。悔しいけど納得の負け」とたたえた。


忘れ物を探す4年間だった。18年平昌で銅、22年北京で銀。悩みながらも「世界一」を追い求めた。しかし、勝てない期間が続いた。「なぜ誰も、ナイアガラの滝に行こうとしないのか?」。23年のカナダ遠征で、リンド・コーチから問われた。近くに世界的観光地がある宿に泊まりながら、1人として動かなかった。「何も言わなくても分かるのはいいところでもあり、悪いところでもある」。“熟年夫婦”ぶりを指摘された。


15年に藤沢が加入し、4人が集って10年。距離は縮まったようで、離れていた。今季はともに食事し、ガーデニングをし、浴衣を着て祭りに参加。開幕前には、全員で膝をつきあわせた。藤沢は「時には泣きながら、思っていることを言い合った」と振り返る。練習内容、代表決定戦への道、さらにはその先まで。思いのたけをぶつけ、勝負の1年に挑んだ。今季は3戦で2度優勝。わずか1敗で決戦を迎えていた。だが大一番で結果は残せなかった。


勝てるのは当たり前じゃない。でも、4人でコルティナを目指せたのも当たり前ではない。吉田知は「4年間このチームでプレーすることを諦めなかった私たちを褒めたい」と喜んだ。やるべきことをやり続けたから、誇れた。


そして「五輪は逃げない。4年後、8年後、12年後にもある。強くなりたいと思い続ければ、きっとチャンスは来る」と思いを明かした。藤沢は「気持ちの整理がついたら、『世界一』を目指したいと思えたら、そこに向かってやりたい」とだけ口にした。次に目指すべき先は何か−。4人が、新たな旅に出発した。【飯岡大暉】


<ロコ・ソラーレ10年間の主な歩み>


★15年 5月、中部電力から藤沢が加入。


★16年 2月、日本選手権初優勝。3月、世界選手権に女子日本代表として出場し銀メダル獲得。


★17年 9月、平昌五輪代表決定戦で中部電力と対戦し、五輪代表に決まる。


★18年 2月、平昌五輪に日本代表として出場し、男女通じて日本勢初の銅メダルを獲得する。6月、リザーブだった本橋麻里が選手休養と運営法人の代表理事専念を発表。11月、妹分チーム「ロコ・ステラ」が誕生。12月、五輪で話題となった「そだねー」が流行語大賞に輝く。


★19年 4月、藤沢がミックスダブルスで日本代表として世界選手権に出場してベスト8。


★20年 3月、世界選手権に女子日本代表として出場予定も、新型コロナウイルスの影響で大会が中止。


★21年 9月、北京五輪最終予選代表決定戦で北海道銀行(現フォルティウス)と対戦し、代表権を獲得。12月、北京五輪最終予選で五輪出場権を獲得。


★22年 2月、北京五輪で初の決勝進出を果たし銀メダルを獲得する。7月、吉田知は河野恭介氏との結婚を発表。


★23年 3月、男子チーム「ロコ・ドラーゴ」誕生。7月、藤沢がボディーメークコンテストに挑戦し、話題を呼ぶ。


★24年 5月、北京五輪でもリザーブを務めた石崎琴美がチームを離れる。吉田夕が新濱との結婚を発表。


★25年 9月、ミラノ・コルティナ五輪最終予選代表決定戦でタイブーレクでフォルティウスに敗れて3大会連続の五輪出場を逃す。

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