ICC赤根所長(産経新聞社)8月18日、米財務省の外国資産管理局(OFAC)は、国際刑事裁判所(ICC)の赤根智子所長を制裁対象者リスト(SDNリスト)に追加した。理由は、米国の同盟国イスラエルのネタニヤフ首相に逮捕状を出すなど、管轄権に同意していない国の当局者を捜査・訴追しようとしたICCの取り組みに「直接関与した」というものだ。ルビオ国務長官は声明で、ICCを「腐敗し、致命的なほど政治化された超国家的裁判所」と断じ、「国家主権への攻撃を容認しない」と強調した。
赤根氏は、日本人として初めてICCトップに就いた人物だ。その人物が、米国のSDNリストに載った。
◆そもそも「SDNリスト」とは何か
SDNリストに載ると、何が起きるのか。まず、本人の資産が凍結される。米国内にある資産はもちろん、米国人や米国企業が管理している資産も対象になる。
次に、米国人や米国企業は、その人物と原則として取引できなくなる。ここでいう「米国企業」には、VISAやMastercard、Amazon、Microsoftなど、私たちが日常的に利用しているサービスを提供する企業も含まれる。
余談だが、本人がオーナーシップを50%以上を所有する会社も、原則として同様にブロックの対象となる。
今回はOFACが「一般許可12号」を同時に発出しており、9月17日午前0時1分(米東部夏時間)までは、既存の取引を整理するために通常必要な範囲の取引が認められている。だがそれを過ぎれば、別途許可された取引を除き、制裁の禁止措置が原則として全面的にかかる。
◆赤根氏は「一人目」ではない
ICCへの制裁は、今回いきなり始まったわけではない。米財務省は2025年2月の大統領令14203号を根拠に、判事や検察官への指定を段階的に広げてきた。ICC自身が8月19日に発表した声明によれば、今回の指定でICCの判事18人のうち9人、両名の副検察官、前検察官1人、職員1人の計13人が、すでに米国の制裁対象になっている。組織そのものを機能不全に追い込みかねない規模の指定が、1年半かけて静かに積み上がっていたことになる。
個々の生活への影響も、すでに複数報告されている。判事キンバリー・プロスト氏はアメリカン・エキスプレスのカードが止まり、アマゾン・カナダからアカウント閉鎖を通知され、Alexaは応答しなくなり、購入済みの電子書籍が端末から消えた。カーン氏は銀行口座を閉鎖され、マイクロソフトのICC用メールアドレスも停止された。副検察官のマム・マンディアイェ・ニアン氏は、カードが止まり、車の充電サービスの支払いすらできなくなったと語っている。
いずれも、米国の法律に違反したわけではない。ICCという国際機関の職務を果たしただけだ。それでも生活は止まった。そして今回、その列に日本人自身の名前が加わった。
◆武器化された相互依存
なぜ一枚のリストで生活が止まるのか。答えは、1990年代からの30年間の積み重ねにある。冷戦終結後の世界では「グローバル化が進めば国境の意味は薄れ、どの国の企業も対等に競争するようになる」という楽観論が広まった。しかし実際に起きたのは逆だった。決済ならビザとマスターカード、検索ならグーグル、通販ならアマゾン、メールとクラウドならマイクロソフト……「使う人が多いサービスに、さらに人が集まる」というネットワークの性質のせいで、世界の経済活動は少数の「結節点」に吸い寄せられていった。そして、その結節点の大半は、アメリカの法域の中にある。
ジョージタウン大学のアブラハム・ニューマン教授らは、この構造を2019年の論文で「武器化された相互依存」と名付けた。結節点を押さえた国は、そこを通過するすべての人間・企業・国家に対して力を行使できる。2013年に発覚した米国家安全保障局(NSA)による世界規模の通信監視も、2022年にロシアの主要銀行が国際送金網から締め出された制裁も、同じ構造の応用にすぎない。ミサイルも軍艦もいらない。結節点のスイッチを切るだけで、相手は身動きが取れなくなる。
ICC関係者に起きたことは、この力が国家ではなく個人へ向けられた一例だ。ここで正確に見ておく必要があるのは、命令の中身だ。米政府が「Alexaを黙らせろ」「電子書籍を消せ」「充電を止めろ」と一件一件命令したわけではない。命令したのは、SDNリストへの指定という上流の一手だ。そこから先は、まず米国人や米国企業に取引禁止の法的義務がかかる。さらに金融機関やサービス事業者は、制裁違反とみなされるリスクを避けるため、禁止範囲を広めに解釈して安全側へ倒す。法的な遮断と企業のリスク回避が重なり合い、国家自身が個別に設計していないところまで生活が止まっていく。
◆「大変残念」で終わらせていいのか
高市早苗首相は19日、「大変残念に思っている」とのコメントを出した。赤根所長本人は21日、これが「法の支配」の終焉の始まりになってはならないと述べている。
日本政府はICCを一貫して支持してきた。それでも、自国出身の所長が制裁の対象になったとき、政府が直ちに提示できる制度的な対抗手段は見当たらない。
対岸の火事ではない。先に制裁されたICC関係者が失ったクレジットカードも、Amazonも、Microsoftのメールも、日本で暮らす私たちが日々使っているものだ。国際機関のトップですら一枚の指定書で締め出される基盤の上に、日本人1億2千万人の生活も乗っている。
拙著『「デジタル主権」戦争』では、この構造が個人だけでなく国家間の制裁にどう転用されているか、そして日本国内でも同種の「規約一枚での締め出し」がすでに起きている実例まで踏み込んで書いた。赤根所長の一件は、その延長線上で起きている。
文/昼間たかし
【昼間たかし】
ルポライター。1975年岡山県に生まれる。県立金川高等学校を卒業後、上京。立正大学文学部史学科卒業。東京大学情報学環教育部修了。ルポライターとして様々な媒体に寄稿。著書に『コミックばかり読まないで』『これでいいのか岡山』