空手家・佐竹雅昭が語る「K-1」と格闘家人生 第3回
(第2回:運命の出会いを振り返る 公園で声をかけてきた極真の男と「ノリが軽い」石井館長>>)
現在の格闘技人気につながるブームの礎を作った「K-1」。その成功は佐竹雅昭を抜きには語れない。1980年代後半から空手家として活躍し、さらにキックボクシングに挑戦して勝利するなど、「K-1」への道を切り開いた。
59歳となった現在も、空手家としてさまざまな指導、講演など精力的に活動にする佐竹氏。その空手家としての人生、「K-1」の熱狂を振り返る連載の第3回は、強すぎて破天荒だった先輩、全日本選手権大会での日本一への道を語った。
【肋骨を折られて「心をわしづかみにされました」】
高校に進学後に入門した「正道会館」。そこで、伝説の空手家、中山猛夫師範の洗礼を浴びた。
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「入門した当初、中山師範が『君、体大きいね。ちょっとおいで』って呼ばれたんですが、白帯の僕にいきなりミドルキックをしてきて。その一撃で肋骨にヒビが入りました。強烈な洗礼でしたが、僕は落ちこむどころか、逆に『ウォォォ! これが本物の蹴りだ! 求めていた世界だ』って感動して、心をわしづかみにされました」
中山が白帯の道場生を指名したのは、理由があったという。
「黒帯の先輩たちは、実戦を想定して常に人間を倒すことばかりを考えていました。だから、中山師範はよく瓦などの試し割りを『あんなものを叩いても人は倒せない。俺らは人を倒すんだから、人を倒すための技を身につけないと』とおっしゃっていた。だから、僕らみたいな白帯の子を相手に"倒しグセ"をつけていたんです」
群を抜いて強い中山に憧れ、大阪のJR天満駅前にある正道会館本部道場で稽古に没頭した。そして、目標とする先輩のさらなる強さを目の当たりにする。
1982年、正道会館は初めての全国大会、「第1回ノックダウンオープントーナメント全日本空手道選手権大会」を大阪府立体育会館で開催した。
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「会場が超満員になって盛り上がりました。僕は白帯だったから、一緒に入門した仲間と試合を見たんですが、中山師範は1回戦で、ミドルからのハイと蹴りを放って相手を棒のように倒した。圧巻の一撃に、お客さんは総立ちで拍手です。僕も無意識に立ち上がって拍手してました。『人ってこんな倒れ方するのか......』と衝撃を受けましたね。
生涯、あんな強烈な一本、KOは見たことがありません。そしてあの光景は、僕が空手を志した時に思い描いていたものでした。『あんなKOを自分もやってみたい』と、より稽古に熱中しました」
【中山師範に学んで得た「人を倒す自信」】
中山は第1回大会を優勝し、翌年の第2回も制した。佐竹は組手の稽古で、日本一の空手家に胸を借りた。
「これが、まったく歯が立たなくて。全日本王者の実力、自分との実力差を思い知らされました。弱い僕は、強い先輩を見て学んでいった。理想的な、いい道場に入ったと思っていました」
稽古の軸は組手。そこで人を倒す術を学んでいった。
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「肉体の強化もやりましたが、動いている相手を倒さないといけませんから、組手を重ねるしかないんです。先輩たちとの組手が一番鍛えられました。指導も斬新だけどわかりやすくて、当時の空手界では最先端だったはずです。
具体的には、"力の入れどころ"を教わりました。突きなら、腕を伸ばして拳が相手に当たる瞬間に力を入れて"突き抜く"イメージ。人を倒すには、当たった瞬間のインパクトが最も重要で、あとは脱力していていい。あと、『遠心力を使って、拳を止めるんじゃなくて突くんだ』とよく指導されました。中国武術の『発勁(はっけい)』という技術と同じ極意です。
それを、ひたすら組手を重ねて体で覚えました。稽古を重ねるうちに僕も習得してきて、相手と少しの隙間があれば、人を倒せる自信がついていった。身体能力も上がって、当時は体重が70キロ台でしたが、ジャンプで人の頭を飛び越えられるくらいでした。全身がバネみたいな感じでしたね」
稽古を離れても佐竹は、中山と行動を共にした。
「これは、今の時代では完全にアウトでしょうが......。中山師範は普段、何を考えているのかわからない人なんです。街を歩いていると、いきなり『今からケンカするぞ!』と言って知らない人と戦って、勝って『逃げろ!』と去る。そんなことが多くて、漫画『嗚呼‼花の応援団』の主人公・青田赤道のような、破天荒を絵に描いたような方でした(笑)。そこが、僕には魅力的だったんですけどね」
中山の背中を追い続ける日々。高校を卒業し、関西外語大学へ進んだ1984年には、全日本選手権大会で4位になった。
「日本一になりたいという思いだけで稽古していました。組手をしていた先輩たちは、皆さん強くて『とてつもなく厚い壁だ』と思っていましたが、当時の僕は恐れなかった。大会前には『とにかく、ぶち当たるだけだ』って覚悟を決めていました。
当時、取材を受けた時も『とにかくぶち当たるだけ。山を潰すだけです』と言ってましたね。誰であろうと、目の前に立つ人間を叩き潰すしかないという気持ちだけ。その時のことは、今も思い出します」
【日本一に立ちはだかった先輩たち】
そんな気迫を全開に臨んだ第4回大会は、過酷なものとなった。
「準決勝で、先輩の今西靖明さんにハイキックで倒されました。ダメージが深くて、医務室に運ばれたら眼球打撲の重傷。片方の目が見えない状態でしたが、棄権する気持ちはありませんでした。『死ぬなら畳の上だ』と思ってましたから。そのまま3位決定戦に出て、木村成克先輩に敗れて4位でした」
失意を乗り越えて迎えた1985年。ついに決勝戦に進出するも、先輩の川地雅樹に敗れて2位。翌年も決勝まで進んだが、再び川地に返り討ちにあった。
「空手家になって最初にぶち当たった分厚い壁でした」
1987年もやはり決勝に進出。対戦相手は3年連続で川地だったが、ついに勝利して日本一に輝いた。
「3度目の対戦ですから、川地先輩との戦いに慣れてきた部分が大きかったと思います。大学を卒業する年でしたし、『何としてでも勝ってやる』という覚悟と信念が背中を押しました」
正道会館で「最強」となった佐竹は、空手家を志した中学時代に宣言した「日本一」を実現した。しかし、それは新たな始まり。ターゲットは前田日明だった。
(つづく)
【プロフィール】
佐竹雅昭(さたけ・まさあき)
1965年8月17日生まれ、大阪府吹田市出身。中学時代に空手家を志し、高校入学と同時に正道会館に入門。大学時代から全日本空手道選手権を通算4度制覇。ヨーロッパ全土、タイ、オーストラリア、アメリカへ武者修行し、そこで世界各国の格闘技、武術を学ぶ。1993年、格闘技イベント「K-1」の旗揚げに関わり、選手としても活躍する傍ら、映画やテレビ・ラジオのバラエティ番組などでも活動。2003年に「総合打撃道」という新武道を掲げ、京都府京都市に佐竹道場を構え総長を務める。2007年、京都の企業・会社・医院など、経営者を対象に「平成武師道」という人間活動学塾を立ち上げ、各地で講演を行なう。