85年、日本一を決め、胴上げされる吉田義男氏 (C)Kyodo News◆ 白球つれづれ2025・第6回
ある時は「今牛若丸」、またある時は「ムッシュ」の愛称で親しまれた元阪神監督の吉田義男氏が2月3日脳梗塞で亡くなった。91歳の大往生だった。
1953年に、立命館大を中退して阪神に入団。以来73年にわたりタイガースをこよなく愛し、チーム強化に心血を注いだレジェンドである。
39回と6回。これはセ・パ2リーグに分立した1950年以降の巨人と阪神のリーグ優勝回数だ。名門同士、伝統の一戦と常にライバル関係にあったが、実情は巨人の一強。阪神には長い冬の時代が続いた。この苦難の時代を知り、ようやく光明を見出した85年の球団初の日本一。影の時代も、光の時も常に吉田氏がいた。
その白球人生を振り返ると、四つの大きな節目がある。
まずは現役時代。167センチの小柄ながら、堅守俊足巧打の遊撃手として1年目からレギュラーの座を掴み取る。その華麗な守備は「マジックスロー」と呼ばれ「捕るが速いか、投げるが速いか」と王貞治現ソフトバンク球団会長が偲べば、中日のエースだった権藤博氏は「唯一無二の名手で、別格中の別格」と証言する。
当時の巨人には広岡達朗がショートを守り、三塁は長嶋茂雄の黄金三遊間と人気を博した。だが、そんな彼らよりも巧いと言われたのが吉田と三宅秀史のコンビだった。
次の節目は監督時代である。75年からの第1次監督期では3年間で2度のAクラスも最終年に4位で終わると退任に追い込まれる。それから8年後の85年に二度目の監督に就任すると初年度に球団初の日本一を手にした。
ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布の強力クリーンアップで伝説の巨人戦バックスクリーン3連発ばかりがクローズアップされるが、捕手、二遊間に中堅を含めたセンターラインの強化で守備力を高めた吉田流の守りの野球の勝利でもあった。
97年からの第3次監督時代はわずか2年で幕を閉じるが、日本一監督の称号は、その後も色あせることはなかった。
さらに吉田氏を語る上で欠かせないのは「国際派」の知見だろう。
現役引退後には、何度も米国に渡っている。本場のメジャーリーグを観戦し、戦術からトレーニング法まで学び、後の指導に役立てた。
フランスのナショナルチーム監督に就任したのは、日本一になってから5年後のことだった。パリにアパートを借りて、フランス語も学びながら、野球後進国の指導に心血を注いだ。目標とした五輪出場は叶わなかったが、現地では「ムッシュ・ヨシダ」と親しまれ、今でも「吉田チャレンジ」と名前を冠した国際大会が開催されていると言う。
そして、四つ目は有力OBとしての“政治力”も見逃せない。
3年前に2度目の岡田監督誕生時には、当時の角和夫オーナーと岡田氏の間に立って尽力。それが球団史上2度目の日本一につながった。
球団は今年が創設90周年。これを記念して吉田氏を始め、掛布、岡田、田淵幸一氏ら9人を「アンバサダー」として起用すると発表したばかりだった。
伝説のスター選手は数多く輩出しているが、3度の監督を務めたのは吉田氏以外いない。それどころか、田淵、掛布、江夏豊氏らは一軍監督に起用されたことがない。
阪神と言う球団は長く親会社や役員人事によって監督人選に影響を及ぼして来た歴史がある。人気球団ゆえ、タニマチが選手を夜の街に引き連れていた弊害も指摘されたことがある。選手による不祥事もあった。
長い冬の時代。伏魔殿のような難しい組織にあって、天国も地獄も味わいながら常に球団のシンボルであり続けたのが吉田義男と言う男だ。
華麗にして堅実な現役時代。柔和に見えて頑固で信念の指揮官時代。球史に残る名人が阪神タイガースと言う熱い血を宿して天国に旅立った。
新生・藤川タイガースに新たな使命が加わった。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)