「臨床宗教師」を目指す僧侶の古渓光大さん=1月26日、群馬県安中市 病院や被災地で心のケアを担う「臨床宗教師」を目指す僧侶がいる。龍峩山雲門寺(群馬県安中市)の副住職、古渓光大さん(30)。般若心経を現代語訳してラップするなど、これまでも型にはまらない活動を続けてきた古渓さんには、「死」を敬遠せず、人々に後悔しない生き方をしてほしいとの思いがある。
臨床宗教師は2011年の東日本大震災を機に東北大などで養成が始まり、18年から日本臨床宗教師会の認定制度が始まった。布教を目的とせず、悲しみを抱える人にさまざまな宗教者が向き合う。古渓さんは昨年4月、資格を取るため上智大グリーフケア研究所に入所。平日は東京、週末は群馬で過ごす。
住職の長男である古渓さんは実家の跡を継ぐつもりはなく、大学卒業後は大手企業に入社した。医療機器の営業担当を務めたが、日々数字を追う中で「人のためにできることは何か」と悩み、退職して僧侶に。仏教の教えを動画で分かりやすく解説するなど、ユニークな活動でも知られる。
平和で医療が発達した日本では、人々にとって死が遠い存在になったと指摘する古渓さん。それでも葬式では後悔を耳にする機会が多く、「生きている時に死を見詰め、望む生き方をするのがいい」との考えが強まった。
ただ、日本では病院に僧侶がいるのは「縁起が悪い」との見方が根強い。都内で終末期患者のケアに従事する精神科医、平井ゆりさんは「死生観などの話は、医学の場で怪しさを感じられることもある」と語る。その半面、患者から「死んだらどうなるのか」「今生きている意味は」などと問われ、科学の限界も感じるという。
「生老病死の中で、死にだけ携わってきたのは僧侶の怠慢。老・病で力を発揮できれば、どうやって死を迎えたいか考えられる。医学と宗教は真逆だからこそ、つながるべきだ」と古渓さんは強調する。将来は患者の治療選択に寄り添うなどの役割も見据えている。
目指すのは人々に死生観が備わり、病院に僧侶がいても違和感がない世界だ。「生け花のように最後は絶対に枯れるからこそ、今が尊い。それが諸行無常の教えでもある」とほほ笑んだ。