震災で両親を失ったミステリー小説の名手に聞いた、14年後の“心境の変化”と“人の死”への思い

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2025年03月09日 17:00  週刊女性PRIME

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小説家・柚月裕子(56)撮影/矢島泰輔

 2008年のデビュー以来、警察、弁護士、家庭裁判所、将棋など幅広い題材をもとに骨太な作品を発表し、多くの読者に支持されている小説家の柚月裕子さん。

最新作は構想から完成までに14年の歳月

 映画化された『孤狼の血』では型破りな刑事と暴力団同士の抗争を描き、ドラマ化された『最後の証人』をはじめとする佐方貞人シリーズでは刑事事件の真相を追求し、過去にドラマ化され、今年は映画が公開予定の『盤上の向日葵』では、名駒を手がかりに事件を追う刑事と異例の経歴でプロ棋士になった青年の生きざまに迫っている。

 最新作『逃亡者は北へ向かう』は、震災の被災地を舞台に逃亡する殺人犯と彼を追う刑事の姿を描いたクライムサスペンスだ。

「罪を犯した青年がある目的のために逃亡し、それを刑事らが追っていくというお話で、ストーリー自体はシンプルです。ただ、青年はなぜ北に向かうのか、刑事は震災で娘が行方不明になっているにもかかわらず、なぜ娘を捜さずに犯人を追うのか。私はこれまでの作品の中で、登場人物たちがその時々に何を思い、つらい状況の中で、なぜその選択をしたのか、ということを考えてきました。今回はそのことをより一層、突き詰めたように思います」

 本作は構想から完成までに14年の歳月を費やしている。構想の時期は2011年、東日本大震災の後のことだった。

「作家さんの中には、早い時期から震災を描いた作品を書かれた方もいらっしゃいます。でも、そのころの私は自分が何をすればいいのかわかりませんでした。わからないながらも、“小説を書こう”と思い、当時の新潮社の編集者さんに“被災地を舞台にしたものを書かせていただけないでしょうか”とお願いしたんです。震災は今よりもずっとデリケートな問題で、いろいろな状況が落ち着かない時期でもありました。それでも編集者さんが“被災地を舞台にした小説を作りましょう”と言ってくださり、構想を練り始めたんです」

 作品の構想自体はすぐに立ち上がった。だが、なかなか書き始めることができず、ようやく書き進めても途中で何度も手が止まった。

「この作品を執筆すると、その夜に必ず地震や津波の夢を見て。それがすごくつらかったんですね。夢を見るたびに“あ、そっか。私にはまだ、無理なんだな”と執筆をやめていました。だから、書き上げるまでに14年もの時間がかかってしまったんです」

東日本大震災で実家と両親を失った

 柚月さんは山形県在住で、出身は岩手県。両親が暮らす実家は岩手県の宮古市にあった。市沿岸部は津波による甚大な被害を受けた場所だ。

「震災直後に両親と連絡がとれなくなりました。ようやく宮古市に行けたのは震災から1週間後のことです。実家があった場所は、あたり一面、何もなくなっていました」

 柚月さんのエッセイ集『ふたつの時間、ふたりの自分』(文藝春秋)の中には、次のような記述がある。

《両親の姿を求めて、泥の更地となった町と遺体安置所を探した。両親が見つかったのは、震災から半月が過ぎてからだった。二週間後に母が、三週間後に父が、自宅が押し流された近くから自衛隊員により発見された。

 毛布に包まれた遺体の上に、父が愛用していた腕時計がビニール袋に入って置かれていた。日付は十一日のままだった》

『逃亡者は北へ向かう』には、地元の住民が行方不明になった妻子を捜しに遺体安置所を訪れる場面がある。

 中の様子がすぐには見えないようにパーティションで区切られた入り口、遺体の情報が記された紙を張った衝立、ブルーシートに包まれた遺体がきれいに並べられた公民館のホール。リアルな描写からは柚月さん自身の経験が透けて見える。

「その場面には、私が実際に見聞きしたことが多く入っているように思います。私自身、ひとりで遺体安置所を訪ねることもあれば、岩手に住む親族に車を出してもらって一緒に行くこともありました。ただ、両親の遺体の確認は私が行いました」

 本作に登場する青年・真柴亮は福島県内で殺人を犯し、死刑を覚悟しながらもある目的のために北へ向かう。彼が行き着いた先の架空の町・岩手県宮前市のモデルは、柚月さんの実家があった宮古市だ。

「多くの被災地がある中で、実家があった宮古市は私がいちばん、行き来をした場所です。真柴は東北の沿岸をつたって北へ向かいますが、宮古市をゴールにしたいという思いは当初からありました」

 震災後に柚月さんが感じたことや実際に経験したことは、物語が立ち上がる大きなきっかけとなった。

「あの震災の当時は誰もが、“これから先、どうなっていくのだろう”と考えたと思う。個人の人生はもちろん、国や企業も先がまったくわからないような状態でした。小説家ならば“小説を書いて意味があるのだろうか”、ミュージシャンの方ならば“歌うことに意味があるのだろうか”と、多くの方が戸惑いを覚えたと思います。その一方で、戸籍がなくなったことで新しい人生を歩めるのではないか。そう考える人がいるかもしれない、とも思いました。

 というのも、被災地を歩く中で、戸籍を扱う公共の組織や機関が消滅して戸籍がたどれない、ということが実際にあることを知ったんです」

 実家があった宮古市で、柚月さんは家や両親に関するさまざまな手続きのため何度も市役所へ足を運んでいた。

「震災関連の受付はいつも長蛇の列。職員の方々は一生懸命に対応してくれましたが、その中にはきっとご自身の家族の安否がわからない方もいらっしゃったと思います」

 本作には、真柴を追う刑事・陣内康介が行方不明の娘の捜索よりも仕事を優先し、妻の理代子に責められるシーンがある。使命感を持って仕事に向かう陣内にも、妻の苛立ちにも共感できる部分があり、読み手の感情が忙しく動く場面のひとつだ。

「普段、温厚な方が震災後の現実に直面する中で強い言葉を口にすることもあり、後になって“あのときはごめんなさい”と謝られたこともありました。そうした経験を踏まえ、陣内の妻が“自分の娘よりも他人を優先するなんて”と責める気持ちは理解できます。陣内の中には娘を捜したい気持ちがある一方、“自分ひとりが捜すよりも自衛隊などのプロが捜したほうがいいのではないか”という思いがある。

 実際の震災の現場には、彼のように感情と現実の狭間で苦しむ人がたくさんいらっしゃいました。ちょっとしたシーンではありますが、特に震災後の被災地にはいろいろな感情や考えを抱えている人がいる、ということが伝わるように書いたつもりです

死や生き方への真摯な思いが込められている

 何度も筆を止めながらも執筆を進める中で、当初の構想とは異なる部分も生じた。しかし、14年間、一貫して変わらなかったものもある。

「私はどの作品にも、書きたい1行といいますか、テーマといいますか、“これがこの小説の肝”というものがあるんです。この作品に関しても、早い段階からテーマがあり、それは書き終えた今でも変わらずあります」

 そのテーマを尋ねると、柚月さんは慎重に言葉を選びながら続けた。

「簡単に言えば“人の死に意味があるのだろうか”ということです。

 私たちは誰かが亡くなると、“どうしてあの人が亡くなったのか”など意味を欲しがってしまうものですよね。

 私自身、未曾有の災害が発生した中で、両親を捜しにいろいろな遺体安置所へ足を運び、多くのブルーシートに包まれたご遺体を目にしました。その過程で、ブルーシートの中のご遺体が、たとえ赤ちゃんであれ、殺人犯であれ、死はただ厳格にそこにあるものであって、そこに意味はないのだと思うようになりました。

 その人の死に意味を見いだすのはあくまでも生きている人であって、死はすごく厳粛で厳格で残酷なものなんです」

 死というテーマが根底に流れる本作のラストは、決して明るいものではない。しかし、そこには柚月さんの確かな思いが込められている。

「例えば過去に書いた『盤上の向日葵』も、読んでくださった方が望む終わり方ではなかったかもしれません。登場人物にとって納得できるであろう終わり方で、かつ読者の方にもその思いが伝わって最後のページを閉じていただくこと。私はどの作品も、そんなラストを目指しながら書いています」

 震災の場面や被災者でもある登場人物たちの心理描写など、緊迫感ある展開が続く中、心がフッとゆるむ場面も差し込まれている。そのひとつが犬のコタロウのシーンだ。

「コタロウが登場する場面は、14年前の構想時から書こうと決めていました。大きな変化がある中で、コタロウは変わらずにある、ひとつの象徴のような存在なんです」

 幼少期には父と市場へ出かけ、母と読書を楽しんだ『逃亡者は北へ向かう』を振り返り、柚月さんは「今まで書いてきた作品の中で、自分が経験したことがいちばん埋め込まれていて、ある意味、いちばん自分に近いように思います」と話している。そんな柚月さんのこれまでの歩みについて教えてもらった。

「生まれは岩手県の釜石市。両親と6歳上の兄の4人家族で育ちました。父は転勤族で、ゴルフや麻雀、釣り、山登りと多趣味でした。基本的に家にいない人でしたね」

父との時間を大切に

 多忙な中でも、父は柚月さんとの時間を大切にしていた。

「釜石に住んでいるころ、朝に港に揚がった魚を売る『魚菜市場』が開かれていました。今はもうないのですが、当時は橋の上に市場があった。父は早起きで、寝ている私に“裕子、市場に行くか?”って声をかけてくれるんです。一緒に市場に行くと“どれが食べたい?”と聞いてくれて、筋子やマグロのさくなど、私が食べたいものを買ってくれました。

 魚に関しては父が台所に立っていた。父がさばいて家族で朝ごはんに食べるんです。当時はそれが普通だと思っていたのですが、山形に引っ越してから“えっ、朝食にお刺身?”“朝から刺身定食?”と驚かれて、逆にびっくりしました(笑)」

 外出が多い父とは対照的に、母は料理をしたり、読書をしたりと家にいるのを好む人だったという。

「父も母も本が好き。私の中の本に関する記憶にあるのは母なんですね。定期購読をしていた福音館書店の『こどものとも』や絵本を、寝る前に一緒に布団に入って読んでくれました。時には電気を消して昔話を語ってくれることもあって、好きだったのが『耳なし芳一』や『牡丹灯籠』といった怪談です。怪談を話す母の口調が怖くて、泣いて眠れなかったこともありました。寝かしつけにはふさわしくないお話ですよね(笑)」

 母とは一緒にマンガを楽しんだ時期もあった。

「今でいう推し活のように、ふたりで好きなキャラクターのことを話したりしていましたね。“この先はどうなるんだろう”と私が言えば、“お母さんはこうなると思うな”と返してくれたりして、一緒に物語を楽しんでいました。母とふたりで想像をふくらませる読書体験が、私を本好きにしたいちばんの理由ではないかと思っています」

 高校生のときに父の転勤で山形県に移り住み、柚月さんは21歳で結婚。その後、再度の転勤で両親と兄は岩手県に戻った。母が他界したのは、柚月さんが28歳のときだった。

「母はがんを患い、55歳で亡くなりました。主治医からは次の桜は見られないと言われていましたが、その後、桜を5回も見ることができました」

 数年後に父が再婚した。震災後、柚月さんが遺体を確認したのはふたり目の“母”だ。

「父が住む岩手県の方言で妻のことを“かが”と言うんですね。ある日、父が“かが、もらおうと思う”と言ったんです。紹介されたのが父よりだいぶ年下の女性で“お父さん、やるじゃない”って(笑)。男やもめの父のことが気になっていましたし、ありがたかったですね。義理の母はとても優しい方で、いいご縁があって本当によかったと思っています」

真っすぐな気持ちで小説を書き続けている

 柚月さんは23歳で長女を、26歳で長男を出産している。子育てが一段落したころから県内で開催されている『小説家になろう講座』に参加し始め、40歳のときに『臨床真理』で「このミステリーがすごい!」大賞を受賞しデビューした。

 柚月さんの代表作のひとつである『孤狼の血』(KADOKAWA)の担当編集者・山田剛史さんは、デビュー当時の柚月さんを知る人物のひとりだ。

「『臨床真理』を読み、精神疾患のようなデリケートな問題に挑戦されていると感じました。芯のある人物を描かれる点にも興味をひかれ、一度お会いしたいと思い山形に向かいました」

 その後『小説 野性時代』の編集長となった山田さんは柚月さんに連載を依頼。2014年から掲載されたのが『孤狼の血』だった。

「もともと柚月さんは『仁義なき戦い』のような作品を書きたいとおっしゃっていました。アウトローを題材にした小説だと、黒川博行さんらの人気作家がすでにいたのですが、柚月さんは、それでも書きたいと。その気持ちが突破口となって、『孤狼の血』は柚月さんの代表作になったのだと思います」

 また『新宿鮫』シリーズなどのベストセラー作品を持つ小説家・大沢在昌さんは、柚月さんについて次のようなエピソードを語ってくれた。

「彼女は2013年に『検事の本懐』で、僕が選考委員を務める大藪春彦賞を受賞しました。そのとき、僕にはっきりと“これからも小説を書き続けて、小説家として成功したい”と言ったんですね。

 小説家というのは承認欲求の塊みたいな生き物ですから“もっと売れたい”“もっと認められたい”と思っているもの。格好をつけてその気持ちを隠す人が多い中、彼女は素直に言葉にしました。そのときに“この人は伸びるだろうな”と思いました」

 その後、大沢さんが選考委員を務める吉川英治文学新人賞と日本推理作家協会賞の候補作になったのが『孤狼の血』だった。

「正直なところ、僕は『孤狼の血』を評価していなかった。だから、吉川英治文学新人賞には落ちたんです。厳しい言葉でダメ出しをしたところ、彼女は僕の前で悔し泣きをしたんです。それは落とされたことへの悔しさではなく、もっといい小説を書きたいという気持ちの表れでした」

『孤狼の血』は他の選考委員の声によって日本推理作家協会賞を受賞した。

「僕が選考委員を務めているので、彼女は受賞をあきらめていたんでしょうね。受賞が決まった後、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして現れたことをよく覚えていますよ」

 ちなみに、柚月さんの趣味のひとつはゴルフで、きっかけは大沢さんのすすめだった。

「強くすすめた覚えはないんですけど“プレー中は他のことを考えなくてすむし、息抜きになるよ”といったことを話した後、“ゴルフを始めました”と連絡がありました。彼女のコースデビューは僕も一緒に回りました。

 僕の経験では特にスポーツをやっていたわけでもない50歳近くの女性がゴルフを始めても、あまり上手にならない。でも、彼女の場合は小説と同じで、“ゴルフがうまくなりたい”と真っすぐな気持ちで頑張ってうまくなってきた。彼女の目標は、ゴルフと小説で僕を泣かせることだそうですから」

 大沢さんの言葉は、柚月さんの取材中に今後の目標を尋ねたときの回答に重なる。

「ずっと作家であり続けたいと思っています。いろいろなものに触れて、人として、作家としてもっと成熟して、死ぬまで作家であり続けられるように頑張っていきたいと思っています」(柚月さん)

 兄のような存在でもあるという大沢さんは、柚月さんが“大きな作家になること”を期待しているそうだ。

「彼女は決して器用な人ではないと思うんですね。そういうタイプの小説家はひとつのパターンにこだわるものなんです。けれども、彼女はいろいろなものにチャレンジしている。もちろん、必ずしもそれが常にうまくいくわけではないけれど、彼女は失敗を恐れない。こういう人は大きくなりますよ。どんどん大きな作家になって、銀座で彼女に奢ってもらえる日が来ることを期待しています(笑)」

私生活では5人の孫の“おばあちゃん”

 現在の柚月さんは、家人と愛猫のピノちゃんと暮らしている。

「娘と息子は家を出て、それぞれの家庭を持っています。2人ともわりと近くに住んでいるので、孫たちともときどき会っていますよ」

 柚月さんには4月から小学校3年生になる男の子を筆頭に5人の孫がいるのだそう。家庭裁判所の家庭調査官が登場するミステリー『あしたの君へ』の担当編集者だった文藝春秋の川田未穂さんからは、孫に関するエピソードを聞かせてもらった。

「文芸誌『オール讀物』1月号では毎年、年男・年女の作家さんのグラビアを掲載しています。柚月さんが48歳になる年にこのグラビアにご登場いただき、撮影は寒い時季に神社で行われました。カメラマンが“何をお願いされるんですか?”と聞いたとき、柚月さんは“安産祈願です”とお答えになったんですね。それはお孫さんの安産祈願という意味だったのですが、カメラマンはお若く見える柚月さんが妊婦さんだと思ったようで“寒い中の撮影ですみません”と焦り出したんです。柚月さんはすぐにカメラマンの勘違いに気づき、“違うの!”“息子の子どもなのよ!”とおっしゃっていました(笑)」(川田さん)

 そんな若見えのする柚月さんだが、孫からは“おばあちゃん”と呼ばれているそう。孫は、柚月さんの作品をおぼろげながらも把握しているそうで……。

「娘方の孫が4歳のころ、映画を見に映画館に行ったんですって。そこで上映されていたのが『孤狼の血 LEVEL2』。主演の松坂桃李さんたちのポスターが大きく張られていたそうなの。娘の家に本があったので見覚えがあったのか、よその子どもたちが子ども向け映画に目を輝かせる中、孫は『孤狼の血』のポスターを指さして“おばあちゃんのだ!”と大興奮(笑)。娘はずいぶん恥ずかしかったみたいです。それを聞いたときには“ごめんね。おばあちゃん、こんなきな臭い小説書いちゃって”って思ったけど、こんなおばあちゃんだから仕方ないよね(笑)」

 孫たちは柚月さんが作家だとはまだ知らないという。

「それでいいんです。孫たちにとって私は柚月裕子ではなく、おばあちゃんですから」

 震災から14年がたった今、柚月さんを取り巻く環境は大きく変わった。柚月さんの心境には、どのような変化がもたらされたのだろうか。

「実家がなくなり、父も母もいなくなったことを頭ではわかっていました。でも震災後しばらくの間は、ふとした拍子に“あ、そうだ。お父さんに電話しなきゃ”などと思っていた。そのたびに“違う違う。お父さんはもういないんだ”となって。うまく言えないのですが、それくらい、震災で止まってしまった時間と、現実に流れている時間との間に大きなズレがありました」

 自分の中にできてしまったふたつの時間のズレが、容易に埋まるものではないことは想像できる。一方で、柚月さんの中では、ふたつの時間のズレが、この14年の間に少しずつ埋まっているような感覚もあるという。

「震災のあの出来事が、自分の中で現実と同化していく感じ。単独の出来事ではなく、自分が生きている時間の中に組み込まれ、自分に同化しつつあるように思います。

 いつズレが解消されるのかは自分でもわかりません。でも今回『逃亡者は北へ向かう』を書き切れたことで、自分の中のズレがまたちょっと縮まったようにも思います」

逃亡者は北へ向かう』のエピローグには、《いまを生きる》という言葉がある。

「震災に限らず、生きている中で誰もが“もうだめだ”“息をしているのもつらい”と感じる経験をしたことがあると思うんです。でも、この1秒を、今日の『いま』を何とかやり過ごし、それを繰り返していけば1週間、1か月、1年がたっていて、その間に希望を持てる日が来るかもしれない。物事というのはきっと、今日の『いま』を生きることに尽きるのでしょうね。56年生きてきた中で、そのことをいちばん強く感じています」

<取材・文/熊谷あづさ>

くまがい・あづさ ライター。1971年、宮城県気仙沼市生まれ。埼玉大学卒業後、会社員を経てライターに転身。週刊誌や月刊誌、健康誌を中心に著者インタビュー、人物インタビュー、書評、医療・健康情報などの取材・執筆を手がける。著書に『ニャン生訓』(集英社インターナショナル)。

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  • 公共機関が破壊されて戸籍が辿れないっていうのがね。文明って脆いんやなって思った。
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