1984年の大阪府大東市の水害を巡る訴訟の最高裁判決以降、各地で提訴された水害訴訟で住民側の敗訴が続いてきた。河川の改修には費用も時間もかかり、用地の制約もあるため、特別に不合理な点がなければ、行政の責任は問わないという考え方が最高裁判決で示されたからだ。常総水害訴訟では1、2審ともに国の責任を一部認めた画期的な判決と言われている。弁護士と水工学の専門家はこの判決をどう読み解いたのか。1回目は災害法制に詳しい中野明安弁護士に聞いた。【信田真由美】
堤防の役割を果たしていたとされた砂丘を、国が開発を制限できる「河川区域」に指定しなかったことについて国の責任が認められたのはとても意義深い。
大東水害訴訟の最高裁判決が出てからは「お金や時間に制約がある中で、国は各地で順番に河川管理をしているから、河川整備計画さえあれば国の責任は問えない」という考え方になった。岩盤のような判決で、それ以降は住民側が勝てない「水害訴訟の冬の時代」と言われるようになった。
しかし2審判決では、最高裁判決の枠組みが維持されていても視点を変えればまだまだ救済の余地があることが分かった。
砂丘は私有地で、河川区域に指定すると財産権の侵害になり得るので、水害を防ぐ役割があることに気づいていても国は指定をちゅうちょしたと思う。しかし災害対策で比較されるべきは「命と財産権」である。今回の判決は、国が命を重視しなかったことに対する責任を問う非常に良い判決だ。
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損害賠償額が22年の1審判決から減額されたのは、裁判所が家電や家具について経年劣化に基づいて価値を低く見積もったからだ。しかし、生活再建のために買い替えるには経年劣化で評価された金額では到底足りない。元の生活に戻るための損害賠償となるとその金額ではないと思う。
2審判決では、避難生活を余儀なくされたことによる精神的苦痛に対する慰謝料が1人当たり数万円というものが多く、これでは低すぎる。常総水害直後から被災者の相談を受けていたが、生活の全てを奪われ、新しい生活ができるかわからない状況だった。このような損害賠償額、慰謝料では被災者の気持ちは晴れない。
日本社会全体が被災者をサポートする体制になっていないという問題があり、裁判所もそうした役割を果たそうとしているように思えない。なぜここまで司法が被災者救済に対して消極的なのか疑問に思う。
なかの・あきやす
1963年生まれ。成蹊大法学部卒。91年弁護士登録。一般社団法人「災害総合支援機構」副代表理事や日本弁護士連合会災害対策事務局員を務める。災害や感染症などリスク管理分野が専門。
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常総水害訴訟
2015年9月の関東・東北豪雨で浸水被害を受けた住民ら20人が、鬼怒川が氾濫したのは河川管理に不備があったためだとして国に損害賠償を求めた訴訟。1審・水戸地裁、2審東京高裁では国の責任を一部認めた。住民側、国側双方が上告した。2審では水があふれた若宮戸地区は1審判決と同様に堤防の役割を果たしていた砂丘を国が開発を制限できる「河川区域」に指定しなかったことについて国の責任が認められた。ただ、賠償額は約2850万円で1審から約1000万円減額。堤防が決壊した上三坂地区では河川整備計画を立てる時に用いた堤防の評価基準が誤っていると住民側は主張したが、1審同様、認められなかった。
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