限定公開( 3 )
今年のアカデミー賞で最優秀脚色賞を受賞した映画『教皇選挙』(2024年)が2025年3月20日に日本で公開された。日本人にとってなじみの薄いキリスト教(正確にはカトリック教会)を題材にしているため、関心は薄いのではと思っていたが、週末の劇場はほぼ満席だった。公開館数が限られていたため、観客が集中したことも影響していると思われるが、それでもこれだけ客が入るのだから相応の関心を持たれていると見て間違いあるまい。やはり「アカデミー賞受賞作」「作品賞候補作」という看板は映画ファンにとって抗いがたい魅力があるのだろう。
ところで、同作はローマ教皇(法王)という強大な権力を持つポジションを争う権謀術数渦巻く普遍的なサスペンスとして楽しめるが、その背景にキリスト教のカトリックという宗派の存在があるため、教義、歴史、慣習などについて全く無知だとどうしてもピンとこない部分がある。(そして全く無知だと結末を見てもイマイチ何が問題なのよくわからない)
現代においてヨーロッパのキリスト教徒は減少傾向にあるが、歴史的背景からヨーロッパの文化はキリスト教に強い影響を受けている。
南北アメリカ、オセアニア、アフリカ大陸のサハラ以南もキリスト教がマジョリティの国が多く、アジアでもフィリピン、東ティモールはキリスト教圏だ。意外なところだと韓国も比較的キリスト教徒の比率が高く、人口の3割強がキリスト教徒である。世界人口の約33%がキリスト教徒であり、世界最大の宗教勢力はキリスト教である。洋画にはキリスト教について全く知らないとピンとこない描写が度々ある。世界人口の3分の1にとってその文化背景に当たり前のようにキリスト教があり、彼らにとってはそんなことはいちいち説明する必要が無いからだ。スポーツを題材にした作品で、作中でいちいちルールについて説明しないのと同じようなものだろう。(日本におけるキリスト教徒の割合は人口の1パーセントを超えたことが無いと言われており、日本人にとってその文化は全く馴染がない)
筆者はミッション系の大学を卒業したが、大学で必修科目としてキリスト教の概論があった。朝は自由参加の礼拝の時間もあり、何度か参加し聖歌隊にも短期間所属したので幸いにして学ぶ機会が多かった。学んだことは洋画や翻訳もののフィクション作品を読むときに大いに役立っている。その経験から敢えて断言するが、海外のフィクション作品を楽しむためにもキリスト教の事は絶対に知っておいた方が作品への理解が深まる。今回は海外のフィクション作品を見るときに知っていると役立つキリスト教の実践的知識について、可能な限り簡潔に述べていきたい。
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※本稿を執筆する下記の二冊を参考にしていることをお断りしておく。
山我哲雄 (著)『キリスト教入門』(岩波ジュニア新書)、月本昭男 (監修), インフォビジュアル研究所 (著)『超図解 一番わかりやすいキリスト教入門』(東洋経済新報社)
特に『キリスト教入門』は歴史本としての要素も含んでおり、歴史好きでも楽しめる大変読み応えのある内容だった。教養としてのキリスト教に興味がおありの方に強くお勧めしたい。また、取り扱うのが宗教であるためこれも宣言しておかなければならないのだが、本稿はあくまでも「教養としてのキリスト教」についてである。教えの是非や他宗教と比べての思想の優劣(優劣などというものがあればの話だが)については一切論じないことをお断りしておきたい。
キリスト教の教義については義務教育で日本史を勉強するとキリスト教伝来の部分でぼんやり程度に教わるし、世界史の西洋史でもキリスト教は不可分な要素だ。おそらく殆どの読者諸氏はぼんやり程度であればその教えのキモの部分はご存じのことだろう。だが、せっかくなのでここで概略程度にキリスト教の教えについて述べておきたい。
まずキリスト教はユダヤ教をベースにしている。契約思想、終末論、唯一神信仰(一神教)、メシア(救世主)思想はユダヤ教から受け継いだものだし、聖典の一つである旧約聖書はユダヤ教の聖典でもある。そのため、歴史学者の中にはキリスト教の事を「ユダヤ教イエス派」と呼ぶ人もいるとのことだ。キリスト教の創始者であるイエス・キリストはユダヤ人であり、ユダヤ教徒として生まれユダヤ教徒して亡くなった。キリスト教はイエスが行ったユダヤ教の改革運動でユダヤ教から派生した宗教なので、歴史学的な観点からするとそのような呼び名は少なくとも誤りではないのだろう。付け加えるとイエス・キリストを歴史上の実在人物として研究する「歴史的イエス研究」の分野では、イエス・キリストという呼称は使わない。キリストは「救い主」を意味し、固有名詞ではなく尊称だからである。ナザレが出身地とされていることから「ナザレのイエス」と呼ばれる。(新約聖書ではベツレヘム生まれになっているが、歴史学者の間ではナザレ生まれ説が有力なため)
だが、キリスト教の教えの「キモ」となる部分においてユダヤ教とキリスト教は決定的に異なっている。キモとなる要素は二つ、「選民思想」と「立法至上主義」だ。
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まず、一つ目の「選民思想」だが、伝統的にユダヤ教で救済の対象となるのはユダヤ人のみである。旧約聖書によるとイスラエル民族は神ヤハウェに選ばれた民であり、多民族とは異なる特別な地位を占めているとされている。ユダヤ教ではイスラエル人の子孫であるユダヤ人のみが神に救われると信じられている。それに対して、キリスト教は民族、人種による差別をしない。イエスの教えをまとめた新約聖書は、異教徒であるフェニキア人や異民族であるサマリア人の善行を好意的に描いている。
ユダヤ教の選民思想は、原則的にユダヤ人以外には受け入れがたいものだ。ユダヤ教がユダヤ人の間に留まる「民族宗教」の位置に落ち着いているのに対し、キリスト教が人種も文化も地域も異なる人々に信仰される「世界宗教」になった重要な理由の一つである。義務教育レベルで日本史、世界史を学んだ方は「神のもとに皆が平等と教えている宗教」ぐらいのぼんやりしたイメージを持っていらっしゃるかと思うが、その「皆が平等」であることはキリスト教のキモになっている部分なのだ。(江戸幕府が教えを危険視して「禁教令」を出した理由もそこにある=神のもとに皆平等だと士農工商の身分制が大義名分として成り立たなくなるため)
もう一つのキモの「律法至上主義」だが、「律法」とはユダヤ教における「神がイスラエルの民に与えた生き方と信仰の指針」である。ユダヤ人が特別な存在でいるのは神と契約し、神から授かった律法を順守しているためとされている。律法の中には有名なモーゼの十戒の「盗むな」「殺すな」などの普遍的で倫理的な教えもあるが、「割礼(男性器の包皮を切る通過儀礼)」、「安息日(金曜の日没から土曜の日没)は労働禁止。家事もダメ」、「飲食物の規定(豚肉はダメなど)」といった順守するのが現実的には難しいものも存在する。古代の世界において圧倒的多数は貧困層である。貧困層は「安息日だから働かない」などと言っていたら生活できないし、食べるもののえり好みができるような余裕は無い。律法至上主義を順守できるのは裕福な階級のみである。
イエスの時代、ユダヤ教でも特に厳格だったのが中産階級を主流とするファリサイ派だが、律法を重視するファリサイ派はこういった律法を守らない(守れない)人々を「罪人」として蔑んだ。イエスは「罪人」とされる人々とも積極的に交わったため、キリスト教はこういった厳格な立法至上主義を受け継がなかった。この姿勢は使徒パウロによって「信仰義認論(律法のような行動ではなく信仰によってのみ救われる)」という形で受け継がれ、キリスト教の根幹を成している。
キリスト教は「選民思想による民族、部族の差別をしない」し「律法至上主義による無茶なルールを押し付けない」。アクセスがしやすい思想であり、当然ながらこういった教えは万人に好まれる。民族宗教であるユダヤ教から発祥したキリスト教が世界宗教の地位にいるのはこういった理由からである。(次回に続く)
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