『チ。―地球の運動について―』の結末はなぜわかりにくい? 「迷信との戦い」を超えた先にある景色

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2025年04月27日 13:00  リアルサウンド

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魚豊『チ。―地球の運動について―』(小学館)

※本稿は『チ。―地球の運動について―』最終巻までのネタバレを含みます。


  斬新なテーマと壮大なストーリーによって、多くの人を夢中にさせた魚豊のマンガ『チ。―地球の運動について―』。2024年10月から2025年3月にかけて放送されたTVアニメ版も、大きな話題を呼んだ。


  しかし同作の結末については「何を伝えたいのかわかりにくい」と感じる人が多くいるようで、度々SNSなどで議論を巻き起こしている。そこで今回は終盤の展開について、あらためて考察を行ってみたい。


 まず作品全体の流れをおさえておくと、物語の舞台となるのは15世紀の「P王国」。主流派の宗教「C教」が異端の人々を厳しく迫害している世界にて、「地動説」を信じる人々の物語が描かれていく。


  たとえば第1章の主人公は、若干12歳にして飛び級で大学進学が決まっている天才少年・ラファウ。彼は周囲から神学の道に進むことを求められていたが、自身は天文への情熱を捨てられずにいた。そこである日、異端者として投獄されていた男・フベルトに出会い、「地動説」の宇宙モデルを教わる。


  元々ラファウは合理的に賢く人生を生きるスタンスだったが、“知”に触れて感動を覚えたことで考え方が大きく変わることに。異端審問官・ノヴァクがフベルトを処刑した後、ラファウも標的にするのだが、彼は「地動説」を捨てることを拒否し、自ら命を絶つことを選ぶのだった。


  かくして第1章の時点では、同作の物語は“信仰vs科学の戦い”といった様相を呈している。つまり非科学的な迷信に支配された中世の世界で、科学の精神に目覚めた人々が弾圧され、それでも“知”を愛する精神を未来へと受け継いでいく……というドラマチックな筋書きだ。


  だが作者は、そのようなわかりやすい構造で物語をまとめ上げることをよしとはしない。大きな異変が起きるのは、移動民族の少女・ドゥラカを主人公とする第3章の終盤だ。


  ドゥラカは異端を殲滅しようとするノヴァクたちの手をからくも逃れ、「C教」の司祭・アントニに接触。そこで「地動説は本当に異端なのか?」というすべての前提を覆すような疑問を投げかける。当初困惑していたアントニだが、“他の地域では弾圧の話は聞いたことがない”と思い至り、とある仮説を組み立てていく。


  後ほど到着したノヴァクに対して、アントニが語った内容はこうだ。たまたま宇宙論に厳しい権力者が存在し、地動説の研究者たちが異端者として処刑されたことから、「地動説は禁忌だ」という物語が広まることに。そしてその汚れ仕事が教会外部の異端審問官であるノヴァクに委託されたことで、正当性が問われないまま弾圧が行われてしまった。すなわちこの地域で地動説の弾圧が起きた理由は、「ただの勘違いだった」というわけだ。


  これはノヴァクにとってだけでなく、地動説の継承者たちにとっても残酷な事実だ。というのもラファウたちは、信仰が支配する中世の世界に生まれながら、科学的精神にいち早く目覚めた“早すぎた近代人”であるはずだった。だからこそ異端審問官との戦いは崇高な役目を帯びるのであって、もし戦いのなかで命を落とすとしても、それは人類の歴史を一歩先に進めるための尊い犠牲になるはずだった。


  しかしノヴァクがこの時代の価値観を象徴する人物ではないと明らかになったことで、ラファウたちも“進歩の歴史”という物語の主人公ではいられなくなってしまう。今やすべては茶番となった。そこにいるのは勘違いで弾圧を行う異端審問官と、たまたま彼の犠牲になった人々だけだ。


  アントニが口にする「君らは歴史の登場人物じゃない」というセリフは、まさにこのような事態を意味しているのではないだろうか。


  だが、作者はこの地点で物語を終わらせず、さらにもう一方先へと踏み出す。最終章が謎に満ちた展開となったのは、おそらくこれが理由だ。


最終章に示されたテーマとは

  最終章はそれまでの物語から一変、架空の国ではなく1468年のポーランド王国が舞台となる。そしてそこにはなぜか作中序盤で命を落としたはずのラファウ、もしくはラファウにそっくりな同姓同名の人物が登場する。


  彼はアルベルトという少年の家庭教師を勤めており、勉強の意味を見失って悩むアルベルトに対して、「知が人や社会の役に立たなければいけないなんて発想はクソだ」と語る。知的好奇心をなによりも尊重する口ぶりは、第1章のラファウが成長して現れたかのようで、感動を誘われるだろう。


  だがラファウはこの後、地動説の共同研究を拒んだアルベルトの父を殺害する。そしてその現場を目撃したアルベルトに対して、「この世の美しさの為なら、犠牲はやむを得ない」と、自らの行為を正当化するのだった。


  重要なのは、このアルベルトが「アルベルト・ブルゼフスキ」という実在の人物をモデルとしていること。史実では、この人物は地動説の提唱者であるコペルニクスの師匠とされている。すなわち同作の物語が、ここにきて現実の歴史と接合されたということだ。


  ただし、作者は「ラファウたちが守った“知”の萌芽が現実の歴史につながった」という単純な描き方はしていない。大人になったアルベルトはラファウの弟子としてその知を継承するのではなく、別のやり方で世界の美しさに迫ろうとするからだ。


  だとするとそれまでの物語がすべて無に帰すため、あまりにニヒリスティックな結末となってしまうが、それを回避するところに同作のすごさがある。物語のラスト、アルベルトは町を歩いている最中、とある家の住人が郵便物を受け取っているところに通りかかる。彼はそのまま素通りしようとするが、「地球の運動について」という言葉が耳に入り、そこから何かをひらめきそうな予感が漂う。


  郵便物は「ポトツキ」に宛てられたものらしいので、死に際のドゥラカが伝書鳩に託して飛ばした手紙がここに届いたとも解釈できるだろう。


  しかし「P国」のラファウとポーランド王国のラファウは必ずしも同一人物とは言えないため、最終章はこれまでの物語とは“別世界”の出来事とも考えられる。つまりラファウからオクジー、ドゥラカへと至る物語は、現実の歴史につながったとも、つながっていないとも言える……。作者はあえてそこをぼかして描くことで、想像の余地を与えたかったのかもしれない。


  作中後半から最終章の展開は、一見わかりにくいものの、それは前半よりも深いテーマに踏み込んでいるせいだ。前半は“正しい知”の立場に立って、非科学的な迷信を否定する物語だったが、後半では絶対正義の知も倒すべき迷信も存在しないことが明らかにされた。その変化が、盲目的にラファウに従うのではなく、偶然耳にした手紙の一節から影響を受けるアルベルトの描写に象徴されている。


  そしてこれは『チ。―地球の運動について―』という物語自体が読者に与える影響を示唆しているようにも見える。すなわち読者はアルベルトのように、作中で描かれた歴史を鵜呑みにするのではなく、疑念を持ちながら知に関わっていくことを求められているのではないだろうか。


  もちろんここで示したものは、あくまで1つの解釈であって真理ではない。自分にとってどんな意味をもつ物語なのか、この機会にあらためて同作と向き合ってみるのもいいかもしれない。



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  • いつの世でも、思想の押し付け、弾圧は胸糞である。
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