上原麻依さん ベンチプレス女子57キロ級で活躍する上原麻依さん(42歳)。今年行われたノルウェーでの世界ベンチプレス選手権では銅メダルに輝くなど、実績は十分だ。そんな彼女の本業は、なんとフルート奏者。プロとして舞台に立ちつつ、後進育成にも力を注いでいる。筋トレと楽器――一見交わらない2つを極めようとあがく、彼女の人生に迫った。
◆祖父の後押しでフルートをはじめる
上原さんが生まれ育ったのは茨城県。幼少期からフルートへの憧れがあった。それは祖父への憧憬によるものだ。
「私の祖父は生まれつきの弱視で、視力はほぼありませんでした。祖父が生きた時代は戦前戦後という激動で、いわゆる障害者が就職することは今よりもずっと困難でした。一方で祖父は楽器ができた人で、ピアノやヴァイオリン、そして横笛などを巧みに演奏して、お金をもらうなどしていたようです。一緒に住んでいたため、なかでも祖父が横笛を演奏する姿はとてもよく覚えています」
上原さんが中学校へ上がる頃、祖父は病気で施設生活を余儀なくされる。印象に残る会話などもほぼないながら、横笛を演奏する姿を脳裏にはっきりと残した。また、こんな一面もあったという。
「祖父との直接のやり取りで印象的なものはないのですが、私がフルートをやりたいことを知ってくれていて、両親に掛け合ってくれたようです。両親は楽器について無頓着な人で、『ピアノだけやっておけばいいの』という教育でした。実際、私はピアノを習っていたものの、フルートをやらせてもらえるのはずっと先なんです」
◆両親に土下座して入部の許可をもらう
念願のフルートを手にしたのは、中学校に入ってからだ。上原さんが入学した中学校の吹奏楽部は、大会で南関東の代表校に輝くなど、音楽エリートが集まる強豪。時間的な拘束もきつく、当初両親は入部を許さなかった。
「部活は朝6時の朝練に始まり、夜は21時まで練習が続きます。当然、高校受験の準備をする時間もあまりありません。両親はこうした理由から、首を縦に振りませんでした。そこで私は、吹奏楽部の隣で活動しているパソコン部に入ることにしました。でも音が聞こえてきて、思いが募るんですよね。結局、どうしてもフルートをやりたくて、私が土下座をして『勉強も手を抜かない』と約束をすることで、入部は許可されました。中学1年生の終わりごろの話だと思います」
◆音大進学を志望するも、現実は厳しく
他の部員たちよりも遅れて入部したが、上原さんはレギュラーの座を掴んだ。それだけでなく、中学時代の大会成績によって、吹奏楽の超強豪・常総学院高校の推薦枠を勝ち取った。そして高校時代も同じ熱量でフルートに向き合い、指定校推薦で立命館大学へ入学することになった。だが、順風満帆にみえる吹奏楽サクセスストーリーかと思えば、そうでもないようだ。
「やはり根底では、音楽大学へ行きたかったのかもしれません。両親からは『うちにはそんなお金はない』と言われて、その夢は叶いませんでした。もちろん立命館大学は素晴らしい大学ですし、私にはもったいないくらいの場所です。けれども、たとえば大学での勉強などには興味が持てなかったんです」
大学のオーケストラ部には1〜2年でほとんど行かなくなってしまったが、部員を介して知り合ったフルートの先生には4年間ずっと師事した。
「その先生からは『フランス留学を望むなら実現できるレベルだけど、正直、音楽で食べていくのは一般的にかなり難しい』と言われ、『音楽をやるのは大学を卒業してからでも遅くないのでは』とアドバイスをもらいました。私よりも経験のある大人が言うのだから、そうなのだろうと腑に落ちました」
◆10年間にわたり、二足の草鞋を履く生活を続けた
大学卒業後、一時的に実家の家業を継ぐものの、家族という甘えから衝突を頻回に繰り返す。父親から「外で働け」と放り出された上原さんは、大手保険会社での勤務を始めることにした。
「働きながら音楽活動をしていました。いくつかの有名なプロオーケストラを受けましたが、箸にも棒にも引っかからないんです。そんな折、ゲームのBGMを専門にしたプロオケを立ち上げるとの話を聞いて。オーディションを受けると、合格することができました」
昼は社会人として働き、夜はオーケストラの練習がある。睡眠時間を犠牲にした生活は長くは続かなかった。
「プロオケは楽譜を渡されてから完成させるまでの時間が短く、昼間に働いている私には厳しいものがありました。くわえて、昼の職場での人間関係でも悩みがあって、うつ病に罹患してしまいました。10年間働いて、『もういいかな』と退職をすることにしたんです。思い切り音楽をやろうと思っていたんです」
◆ベンチプレスの公式記録は「110キロ」
フルートがやりたいという純粋な気持ちを抱えながらも、要所で回り道をしてきた人生。音楽で生計を立てることを決意した上原さんを待ち受けていたのは、不幸にもコロナ禍だった。
「自宅にいる時間が増えていくにつれて、年齢的にも体型が気になるようになりました。もともと細身でしたが、10キロ近く太ってしまって。たまたま知り合ったパーソナルトレーナーの方に誘われて、トレーニングを始めました」
最初は自重トレーニングから始め、1年で体重を戻すと、上原さんの探究心に火がついた。
「より高負荷のトレーニングをしている人たちに混ざると、とても上手に褒めてくれるのでついその気になってしまって、ジムに通い始めて3ヶ月で地区大会、その2ヶ月後に全国大会に出場するほどのめり込んでいました。フルギアベンチプレスという種目で、公式記録としては110キロを出しています」
◆夜職のお客さんが遠征費用をカンパ
フルート奏者として、またレッスン講師として、音楽だけで生活することを希望した上原さん。だが現実には、水商売をして補填をしなければならないこともあったという。
「最初は、音楽で生きていく夢を成り立たせるために始めた夜職でした。けれども、お客さんやキャストの子たちが本当にいい人で、思いがけず助けられる場面が多くありました。たとえば、ベンチプレスの大会に出る場合、開催場所によっては何十万円もの費用が必要なこともあるのですが、それをカンパしてくれたり。みんな酔っ払いながらも『頑張りなよ〜』と暖かく送り出してくれて、嬉しかったですね」
上原さんは“やりたい”を見つけたら猪突猛進。そのような自身の生き方について、こんなポリシーがある。
「人生は一度きりだから、やりたいことをやりたいんです。本当は音楽一本で生きたいのに、それが叶わなくて社会人として働くことを選びました。どこかで、『これに興味があるんだ、やりたくて働いているんだ』と自分を騙しながら働いていたように思います。でもメンタルを崩して、やりたいことをやらないでいると、人は壊れることを知りました。生き方を変えられてよかったと心から思います」
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音楽などの芸術を収入につなげるのは至難。思いに蓋をしながら生きていくうち、内なる”やりたい”にさえ耳を傾けられずに大人になっていく。大人になる道を蹴ってたくましく生きる上原さんは、そのひたむきさによって自らの運命を手繰り寄せる。縁を大切に生きる彼女なりの処世術が光り輝く。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki