写真 先の参議院選挙で参政党から立候補し、東京選挙区で2位当選を果たしたさや氏(塩入清香)。彼女への怒りを込めた春ねむりの「IGMF」という曲が注目を集めています。
◆「ホラー映画より怖いさや」春ねむりの怒りが炸裂
曲調は浮遊感ただようサウンドに乗せたラップ。しかし言葉は激しい怒りに満ちています。「外国人優遇全部デマ」、「徴兵制を肯定 国旗振って見送んの兵隊さん」など、参政党の政策を揶揄するフレーズに加え、そのような保守的な政策を感情たっぷりに演説するさや氏を、「ホラー映画より怖いさや」と批判しています。
このように、参政党、並びにさや氏の思想、政策、スピーチを全否定する内容に、賛否が分かれているのです。
曲中で「救いなの受かってる吉良よし子」と、ポジティブな意味で名前が登場する共産党の吉良よし子議員は「差別をあおる政治に立ち向かうみなさんと力を合わせます」と賛同を示しています。
劇作家のケラリーノ・サンドロヴィッチ氏も「グッジョブ。清志郎さん(筆者註:忌野清志郎のこと)に聞かせたかった」と自身のXに投稿。リベラル志向の人々は春ねむりに共感しています。
◆「IGMF」に感じる拒否感と共感の分水嶺
これと対照的なのがネット上の意見です。「表現の自由の範囲内かもしれないが、参政党に否定的な私でも引いた」とか、「個人攻撃やハラスメント、ヘイトにあたる表現が法に触れる可能性があるのではないか」といったコメントからは、参政党に対する違和感よりも春ねむりの表現方法への拒否感を訴える声が見受けられます。
筆者の立場を明確にすると、心情的には春ねむりに完全同意です。むしろ筆者は春ねむりや彼女の賛同者以上に、参政党やさや氏には到底共感できません。
それは彼らの思想や政策以前の問題で、具体論や手続き論に一切触れようとしない不誠実な姿勢が生理的に受け入れられません。そして、彼らの標榜する「保守」とやらも、いざとなれば真っ先に国を切り売りする手合いであることを知っています。
だから彼らは間違っても“極右”などではないのです。そのように冷めきって見ているという点で、筆者は春ねむりの曲以上に、参政党やさや氏的なものを完全に否定しているということです。
◆「叩かれれば支持される」参政党の構造的勝利
しかし、「IGMF」については、残念ながら共感することができませんでした。なぜなら、この種の表現方法では参政党に対して効果的な批判にならないと感じるからです。以下に理由を述べます。
まず、「ホラー映画より怖いさや」とか「マジでマザーファッカー」といった直接的かつ一義的な批判の表現が、参政党の神谷宗幣代表のいうところの“叩かれれば叩かれるほど支持される”ルートにまんまとハマっているからです。
参政党が支持を拡大した背景には、「保守的」なるものが現在の社会において不当な扱いを受けていると訴えるために、常に敵対関係を作り出してきたという構造があります。言い換えれば、参政党を激しく批判する勢力の存在こそが、参政党の支持基盤を強化する最大の要因だったのです。
逆に言えば、敵を作ることでしか生き残れない連中に対して、自らノコノコと「私が敵です」と出向く行為をリベラルの人々はやってしまっている。そう、「IGMF」の表現がまさにそれなのです。
しかも春ねむりは、それをユーモアやパロディではなく、本気の真正面でやってしまっている。それは参政党にとって格好の餌だということも知らずに。
◆“IGMF”はさや氏の宣伝にしかなっていない
では、こういう政治的な風刺をうまくやるにはどうしたらいいか。1960年代から1970年代に活躍したアメリカのフォークシンガー、フィル・オクスという人がいます。彼は「Love Me, I’m a Liberal」という曲で理想と社会正義に燃えるリベラル主義者になりきって、その欺瞞(ぎまん)を風刺的に批判しました。
たとえば、こんな一節があります。「黒人の市民権を認めるのはやぶさかではないし、エンタメで黒人のスターがあらわれるのは素晴らしいことだ。でも、社会革命まではちょっと行き過ぎだから、それは勘弁してね」。こういう、今風に言うならば彼らにとってのみ都合の良い多様性を支持するのがリベラルなのだと、フィル・オクスは歌っているのです。
春ねむりも、こういう形で参政党的なものの思考パターンを研究したうえで、彼らのキャラになりきって控えめにおちょくるような歌詞であれば、より大きな共感を得られたと思います。
そして根本的な問題ですが、そもそも「IGMF」がさや氏の知名度に乗っかっている時点で、すでに敗北を喫しているという点です。さや氏の演説のサンプリングから曲がスタートしている時点で、「IGMF」は、春ねむりではなく、“さや氏の楽曲”と言わざるを得ません。
つまり、批判すべき対象に依存しなければ成り立たない曲である時点で、ソングライターとして致命的に後手を踏んでいるのです。
春ねむりは、参政党、さや氏に対する危機感を率直かつ攻撃的なラップという表現で世に訴えました。その思いは理解できます。しかし、そのような生真面目さが効果的であるのかどうかについては、より冷静な視点が必要だったように感じます。
それこそが、“アーティスト”に欠かせない批評眼だからです。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4