戦後農政、生産者を翻弄=食糧難からコメ余り、一転減反―「令和の騒動」で再び増産へ

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2025年09月03日 08:02  時事通信社

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1964年9月に行われた干陸式の会場(大潟村干拓博物館提供)
 終戦後の日本は、食糧難に拍車が掛かった。農業生産が回復しないまま、戦地から兵員や引き揚げ者が帰還して人口が急増。配給は行き渡らず、国は主食のコメを中心に増産を急いだ。しかし、復興が進むにつれてコメが余り始めると、一転して「減反」と呼ばれる生産調整にかじを切る。政策の大転換に翻弄(ほんろう)された生産者は、「令和の米騒動」で再び増産方針を掲げた政府に懐疑的な目を向けている。

 ◇買い出し列車

 太平洋戦争末期、コメの配給は1日当たりの基準量が1人約2合に減らされ、「飢餓状態に近づいていた」(「農林水産省百年史」)。戦後は闇市が広がってインフレが一段と加速。食糧の入手はますます難しくなった。東京都内の配給量は予定の7割にとどまり、都会から農村へ向かう列車は買い出しに行く人々であふれた。

 福井県農業協同組合中央会など5団体を束ねるJA福井県五連の会長を務める宮田幸一さん(74)は、コメを求めて訪れた女性たちの姿を覚えている。「食糧管理法から逃れ、京都・舞鶴からかまぼこやちくわとコメを交換しに来た」。入手したコメは汽車で「隠し持って帰った」という。

 ◇余剰米

 政府は1952年、「食糧増産5カ年計画」を策定し、コメの増産を推し進めた。その一環として、秋田県の八郎潟で57年に干拓工事が始まる。大規模農業のモデルを目指して造成され、64年に大潟村が開村した。

 一方、食生活の欧米化などにより、コメの消費量(加工用などを含む)は63年の1341万トンをピークに減少の一途をたどる。60年代後半に生産量が需要を大きく上回ると、国は過剰在庫を抱えて莫大(ばくだい)な財政負担を強いられた。過剰生産は価格の下落につながるはずが、農家は引き上げを求めて「米価闘争」を繰り広げた。

 それでも、農家は決して裕福だったわけではないと宮田さんは訴える。物価は上がり、収穫量も天候次第。「資本主義経済の中に農業を放り出したら弱い」と痛感した。

 国が需給調整のために生産量の目標を割り当てる減反政策を導入したのは70年。涌井徹さん(76)が新潟県から大潟村に移ってきたのも、ちょうどその頃だった。「若者が夢と希望が持てる農業をつくろう」と燃えていたが、減反に阻まれた。生産を抑えられ、「全国で農業者は10分の1、稲作面積は半分に減った」と憤る。

 ◇大凶作

 93年、東北の米所を偏東風やませが襲った。冷夏による大凶作に陥り、生産量は前年より25%少ない783万トンに落ち込んだ。店頭から国産米が姿を消す「平成の米騒動」に発展。これを機に政府備蓄米制度が導入され、コメの需給と価格を国がコントロールする食管法も廃止された。

 その後も消費者のコメ離れは進み、2020年に800万トンを割り込んだ。18年に減反が廃止された後も農協主導で生産量を抑え、国が支援金を支給して麦や大豆への転作を促した。元農水省事務次官の奥原正明さん(70)は「主食用米の生産を抑制する生産調整はずっと続いた」と振り返る。

 24年夏の「令和の騒動」後、店頭価格は2倍以上に跳ね上がり、物価高に苦しんできた家計に追い打ちをかけた。「適正価格」に落ち着けようと政府が打ち出した増産方針は、農家にどう映るのか。

 戦後農政に「振り回されてきた」と不満を隠さない宮田さんは、「急には増産できない。農家がいないんだから」と突き放す。増産に賛成する涌井さんも「簡単にいかないことは分かっている」と認め、「プロセスをきちんと示してほしい」と注文を付けた。 

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  • 国家観のある農政で消費者も生産者も守ってほしい。
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