写真戦国時代は無秩序に「下剋上」が横行した時代だと思われがちである。しかし実際には、親を殺して家督を継ぐ例は極めて稀で、儒教思想に根ざす親孝行の価値観が社会を強く縛っていた。本稿では、斎藤義龍の極端な行動を出発点に、戦国時代の家督継承に潜む“親殺しタブー”と、古代中国の儒教的影響を紐解く。
※本記事は、本郷和人著『日本史の血脈』より適宜抜粋したものです。
◆戦国時代の下剋上イメージは誤解か
戦国時代と言えば、親だろうが主君だろうが、「家」も「血縁」も無視して、簡単に命を奪う「下剋上」な時代だと多くの人が思いがちです。しかし、実はこれは誤解です。たしかに、織田信長のような一大名や豊臣秀吉のように農家出身の人間が、天下人になるようなことはあれども、「家」や「血」を無視する、すなわち親殺しによって家督を継いだ例は稀です。
戦国大名で、実際に自ら親を殺したのは、父と伝わる斎藤道三を討った美濃国の斎藤義龍ぐらいでしょうか。しかも、この義龍が親を討った後の行動が、非常に興味深いのです。
父を討った後、彼は、名門の守護大名である母方の一色家の血筋を取り上げて、「自分は斎藤家ではなく一色家の者なのだ」と言い出します。さらに、家来たちにも「今日からお前たちは一色家の家来だ」と言って、家臣の名前までも変えてしまった。なんとも極端な例ですが、この行動には、親を討ったことをどうしても認めたくないという想いが見られます。
◆儒教が支えた親子倫理
なぜ「親殺し」はタブーだったのか。
戦国時代といえども、なぜ当時は「親を殺す」ことはそこまでタブーとされていたのか。その理由の一つとしてよく挙げられるのが、儒教の影響です。
儒教では「親を敬うこと」が非常に重要な徳とされます。その思想が反映されているのが、紀元前の時代から存在する『論語』にある逸話でしょう。
この逸話の問いとは、「父親が牛を盗んできた場合、どうすべきか?」というもの。選択肢は二つありました。一つは「お上に告発する」という方法。父親が悪いことをしたら、それを公にし、社会的制裁を受けさせるというものです。
もう一つは「父親をかばい通す」という方法です。儒教では、どんな徳よりも「孝行」が大切とされていて、父親がどんな間違いを犯しても家族がそれをかばうことが「孝行」だとされていたのです。
法治国家である現代の感覚でいえば、前者の「父親といえども法律を守らなかった以上は、きちんと社会的な罰を受けるべきだ」と思うところですが、古代中国の儒教思想では後者の「親孝行」が重要とされました。
◆中国社会に根づく孝行思想と科挙
儒教における「孝行」という思想がいかに中国社会に影響を与えていたかといえば、なんと役人の採用時の基準に使用されていたほど。
中国では長らく「科挙」という制度が採用されていたのは有名な話です。そして、この制度が本格的に浸透する前、後漢時代には孝行や廉直であることを基準に推挙する「孝廉」という制度がありました。
これはどういう制度か。まず、ある村に「あの子は親孝行だ」という評判が立つ青年がいたとします。その場合、その人物が村役人に取り立てられるには、孝行心があるかどうかが判断基準とされました。そこで実際に有能であれば、町役人、さらには地方官へと昇進していくという仕組みです。
では、どうしたら親孝行かどうかがわかるのかというと、儒教では「丁憂」、すなわち「丁寧に三年喪に服する」行為が大事だとされました。簡単に言えば、「親が亡くなったので、三年間家にこもって泣き続ける」ということ。それがなぜ優秀さにつながるのかはわかりませんが、親孝行であることが、役人登用の第一条件とされたのは間違いありません。
その後、西暦二〇〇年代、魏という国で「九品官人法」が定められ、役人登用の制度化が進みます。そしてさらに時代が下り、六世紀末から七世紀にかけての隋という国で科挙制度が導入され、試験による官僚の登用が本格化していったのです。