
『学歴社会は誰のため』(勅使川原真衣著)は、不要論が叫ばれながらも存在し続ける「学歴社会」の謎を解き明かす一冊です。
今回は本書から一部抜粋し、学歴社会において努力や成果がどのように評価されてきたのか、その背景にある構造について紹介します。
「平等」と「公平」、「有利」と「不利」
しばしば参照されるあるイラストを示して考えてみます。このイラスト(図1)の左側が「平等」で、右側が「公平」を示します。
いろいろな人に、一律に「同じもの」を支給すること——これは平等な配分と言えましょう。
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一方で、もともと背の高い左の人は、もらった踏み台のおかげで悠々、観戦していますよね。
これぞ、高い柵を越えて野球観戦したいという願いを共通のゴール(欲求)とした場合に、背の高い人がこの場合は有利であり、背の低い人ほど不利、と説明できます。
前者はラッキー、楽々。後者は困難を伴うとも言えましょう。
これをさらに、平等と公平という観点に戻すと、もともと個体に歴然とした差がある複数人に対して一律に「同じもの」を渡すことは、機会(チャンス)の平等にすぎないのだ、という説明が成り立ちます。
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つまり、機会の平等は、個体差のある人間に対して「一律」という手続きで成そうとすると、残念ながら結果の不平等を生みかねない。
かつ、そのことが問題視すらされていないじゃないか?
差異に満ちた人間に対して、「同じもの」を一律に手渡すことは、「不公平」だよね? という話なのです。
学歴社会の根本的な問題点
そのうえで学歴社会の文脈に戻すと、学校と労働をつなぐフレームワークを先のイラストと接続すると、次のように置き換えられます。===
3人の人間=労働者
観戦(得たいもの)=成果、達成(仕事)
踏み台=学校教育
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学歴が個人の達成を左右する、つまりそこまでの過程にすでに有利・不利があることを自覚しない/不公平さが残っているとの疑いをもたないこと。
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先のイラストのように、身長、年齢、性別などの属性の違いのほか、個人はその置かれた環境も、本人の志向性や体調なども、言わずもがな可視・不可視の差異に満ちています。同じ人間というだけで、総じて違う(個体差のある)生き物です。
ただ仮に、柵の内側で野球観戦をしたい(=仕事、達成)ときに、初期値の違い(先のイラストでは身長差)に対してなんら無自覚なまま、「平等な」踏み台=学校教育という一律の社会システムが入り込んだとて、どうでしょうか?
仕事をして、立派に稼いでいくということを(旧来的な価値観ではありますがいったん、便宜上)「達成」と置くと、どういう傾向がありそうでしょうか?
学歴は要るだの、要らないだのの議論の前に、自分以外も含めた社会全体を可能な限り把握して、全体像を詳らかにする——巷の言説と研究の違いはここにあるでしょう。
勅使川原 真衣(てしがわら・まい)プロフィール
1982年、横浜市生まれ。東京大学大学院教育学研究科修了。外資コンサルティングファーム勤務を経て組織開発コンサルタントとして独立。2児の母。2020年から進行乳がん闘病中。新書大賞2025にて第5位入賞、HRアワード2025書籍部門入賞の『働くということ』(集英社新書、24年)や本書『学歴社会は誰のため』(PHP新書、25年)他、著書多数。 近著に『「働く」を問い直す』(日経BP)、『人生の「成功」について誰も語ってこなかったこと』(KADOKAWA)、『組織の違和感』(ダイヤモンド社)がある。新聞(本よみうり堂)や雑誌(論壇誌Voice)にて連載中のほか、文化放送武田砂鉄ラジオマガジン水曜パートナーとしても発信している。
(文:勅使川原 真衣)

