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5月初めに米ボストンで開催された米IBMの顧客イベント「Think Boston 2026」(Think)を、現地取材した。テーマは「AIファースト企業への転換」。会場の熱気とは裏腹に、IBMにはかつてない逆風が吹いている。
開催のわずか3週間前、米Anthropicは次世代AIの「Claude Mythos」を発表した。同モデルは銀行や政府の基幹システムを支える「メインフレーム」のソースコードを瞬時に解析し、長年隠れていたセキュリティ上の脆弱性を極めて容易に特定できる能力を持つとされる。
AIによって、人間には解読不能だったブラックボックスがガラス張りにされる――。これまで企業にレガシーシステムを導入してきたIBMにとっては、その牙城を揺るがしかねない事態だといえる。
市場では、AIエージェントが既存のソフトウエアビジネスの価値を奪う「SaaSの死」という言葉が飛び交い、IBMの株価も30%近く下落した。この「Anthropicショック」に対しIBMはどう立ち向かうのか。会場で示されたのは「過去の遺産」を「AI時代の新たな資産」へと変える逆転のシナリオだった。会場で取材したIBMのAI戦略に迫る。
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●迫りくる「SaaSの死」 Anthropicの挑戦をIBMはどう逆手に取るのか
IBMは、今回のThinkでAI活用に関する一連の技術を提唱した。その背景には、AI時代に対応し、メインフレームなどレガシーシステムを抱える顧客企業にシステムの更新を促す狙いがある。Anthropicが発表した新しいAIツールを使えば、レガシーシステムの近代化を簡単に進められるようになり、IBMのメインフレームのビジネスを脅かしかねないという判断がある。
Anthropicは「Claude Mythos」をリリースする以前にも、エージェント型のソフト開発ツール「Claude Code」を昨年発表した。Claude Codeを使うことで、メインフレームで使われているプログラミング言語「COBOL」のソフトウエアを「Java」や「Python」などの現代的な言語へ即座に書き換えられるという。
Anthropicの登場によって、SaaSが提供してきた既存のソフトウエアビジネスをAIエージェントが肩代わりし、ビジネスの価値を失わせるとして「SaaSの死」なる言葉まで登場した。米Microsoftなど米IT大手の株価が軒並み大幅下落したことから、「Anthropicショック」ともいわれた。
こうしたAnthropicの挑戦に対し、IBMがThinkの場であらためて発表したのがエージェント型の開発支援ツール「IBM Bob」だ。
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機能はAnthropicのClaude Codeにも似ているが、AnthropicがAIによる「コーディングの自動化」(人間の能力の代替)を志向しているのに対し、IBMがぶつけた回答は「AIによる人間の能力の拡張」だ。
IBM Bobは開発者に寄り添い、要件定義から運用までを並走して支援する。AIに丸投げするのではなく、人間が主導権を握りながら生産性を高める。エージェントの要件定義から、設計、コーディング、テスト、運用までソフトウエア開発のライフサイクル全体を支援するツールだ。実際、IBMの社員8万人がこのツールを活用し、45%もの生産性向上を成し遂げたという。この事実はAIを「脅威」ではなく、「武器」に変えたいという企業にとって強力なメッセージとなる。
●AI時代の到来が新たな企業間格差を生む
「AI時代を迎え、顕著となっている現象は企業間に『AI Divide(AIによる格差)』が広がっていることだ。経営者の80%がAIに期待をかけている一方、新たな価値創造への道筋を描けている経営者はわずか20%に過ぎない」
基調講演で現在の企業のAI活用について、こうクギを刺したのは米IBMのアービンド・クリシュナCEOだ。「技術戦略は企業にとって財務戦略や企業防衛と同じくらい重要になっている」と指摘し、AIを単に活用するのではなく、AIを経営の根幹に据える「AIファースト企業」になる必要があると訴えた。
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かつて「Watson」でAIの先駆者となったIBM。だが2022年のChatGPTの登場はその立場を劇的に変えた。一世代前の技術に基づいていたWatsonに対し、世界のAIの趨勢は大規模言語モデル(LLM)一色に塗り替えられたからだ。この遅れを挽回すべく、IBMは急きょ、生成AIへと舵を切り、2023年に企業向けのAI基盤として「watsonx」を発表。経営に特化した3つの技術基盤を用意した。
1つ目は生成AI技術の「watsonx.ai」、2つ目はAI活用に必要なデータ基盤技術の「watsonx.data」、3つ目がシステムの監視や規制対応などを担う「watsonx.governance」だ。生成AIについては自社の言語モデル「Granite」のほか、米Metaが開発した「Llama」なども採用し、オープンなプラットフォームを開発した。
●AI格差を突破する「4つの武器」 IBMが提唱するAI運用モデルとは?
そうしたIBMのAI基盤のもと、Thinkでは企業がAIを効果的に使いこなすための経営スタイル「AI Operating Model」の導入を訴えた。すでに発表済みのものも含め、4つの技術を提唱。これらをバランスよく組み合わせることで「AIファースト企業」への転換が図れるという。
1つ目はエージェント技術だ。複数のAIエージェントを組み合わせ、それらを同時並行的に管理できるプラットフォームの「watsonx Orchestrate」や「IBM Bob」などが相当する。
2つ目が組織全体で情報をリアルタイムに共有するデータ基盤技術。IBMは継続的に生成されるデータをリアルタイム処理できる技術を開発した米Confluentを2026年3月に、約110億ドル(当時のレートで約1兆6500億円)で買収。その技術をwatsonx.dataに組み込むことでAI活用に必要なデータを迅速に用意できるようにした。
IBMのソフトウエア戦略を担うシニア・バイスプレジデント(SVP)のロブ・トーマス氏は「IBMだけでは開発できなかった新技術をこうした買収によって手に入れることができた」と話す。
●サイロ化された業務システムのハイブリッド化が重要に
3つ目はAIを使ってサイロ化された業務アプリケーションを可視化し、インテリジェントなシステム運用を可能にするオートメーション(自動化)技術だ。「IBM Concert」は複数の管理ツールに散らばったデータを一つに統合し、ユーザーがシステム全体を見渡せるようにするサービスだ。ソフトウエアの脆弱性も自動的に発見し、修復まで担ってくれるという。
4つ目は複数のクラウドやオンプレミス(自社内)環境に分散しているデータを、安全性を保ちながら統合的に活用できるようにするハイブリッド技術だ。こうした情報基盤を開発するため、IBMはクラウドとオンプレミスのデータ統合技術を持つ米webMethodsを、独Software AGから約21億ユーロ(同約3400億円)で買収した。またマルチクラウド環境を構築・管理する技術を持つ米HashiCorpを、約64億ドル(同約9800億円)で買収し、データをハイブリッドに活用できる基盤を構築した。
AIの急速な広がりを受け、最近はデータやAIモデルのSovereignty(ソブリニティ=主権)を求める声が高まっている。IBMはそうした要請に対してはガバナンスやコンプライアンスのための新しい基盤技術「IBM Sovereign Core」を1月に発表。Thinkで一般提供することを表明した。
IBM Sovereign Coreは政府や企業などが持つデータやAIモデル、その利用主権などを顧客側が保持しながら生成AIを利用できるようにする技術だ。IBMが2018年に約340億ドル(同3兆8000億円)で買収した米Red Hatのハイブリッドクラウド技術「OpenShift」をもとに開発した。
●AIがエネルギー企業や医療・金融などの変革促す
では、この戦略は実際のビジネスをどう変えるのか。会場ではエネルギー、医療、金融など、膨大なデータを扱う各界のリーダー企業が成果を報告した。
筆頭はサウジアラビアの石油会社Saudi Aramcoだ。同社は毎日生まれる100億ものデータをAIで分析し、約52億ドル(約8300億円)もの利益を創出。80年来のパートナーであるIBMとの協力体制を、AIによって新たな次元へと引き上げている。
医療分野では、AIエージェントによる劇的な「業務の再定義」が報告された。米Elevance Healthは、年間1億3000万件に及ぶ顧客の電話対応の基盤をAI化した。
また全米に51の病院を運営する米Providence Healthは、12万人規模の従業員の人事関連業務をAIエージェントに委ねた。その結果、採用や配置にかかる管理業務時間を90%削減しつつ、精度を70%向上させた。これは単なる自動化ではなく、複雑な人的資本経営をAIで支援する先行事例といえるだろう。
金融・保険分野では仏金融大手BNP Paribasのジャン=ミッシェル・ガルシアCTOが登壇。「単なる実験から、2023年にはAIを大規模なビジネス成果へと変貌させた」と表明した。AIの利用環境は刻々と変わるが、Red HatのOpenShift上にシステムを構築し、IBM Bobの開発ツールを活用することで、臨機応変にソフトウエアの開発を進められるようになったと語った。
●AI時代に期待される量子コンピューティングの活用
IBMのクリシュナCEOはさらに「生成AIの活用と並び、企業にとって重要なのはハイブリッドクラウドと量子コンピューティングの活用だ」と強調した。IBMは超伝導方式による量子コンピューターを開発し、世界ですでに80台以上が稼働している。従来のコンピューターよりも量子コンピューターの方が性能が上回るという「量子優位性」を2026年中にも実証し、2029年には実用に耐える「フォールトトレラント量子コンピューターを提供する」という見通しを明らかにした。
AIと量子コンピューティングは、これまで別物として扱われてきた。クリシュナ氏は「AIと量子コンピューティングは補完関係をなす技術だ」と指摘。その例として臨床試験などにAIを積極的に活用している米医療機関、クリーブランド・クリニックの例を紹介した。同クリニックの医師、セーピル・エルズルムEVPは心臓病の臨床試験での事例を挙げ「従来の方法では3カ月にわずか14人しか登録できなかったが、AIのアルゴリズムを活用することでわずか1週間に1500人以上をスクリーニングし、30人を登録することができた」と述べた。
クリーブランド・クリニックは、IBMと10年間の協力関係を結び、2023年に民間セクターとして世界で初めて量子コンピューターを導入。2026年5月には日本の理化学研究所(理研)のスーパーコンピューター「富岳」や東京大学のスパコン「Miyabi-G」などを連携させ、約1万2000原子からなるタンパク質の3次元シミュレーションに成功した。18カ月前に処理できたのはわずか10原子だったので「格段の進歩だ」(エルズルム氏)という。
量子コンピューターとスパコンが、それぞれ役割を分担することで成し得た快挙で、生物学における量子コンピューティングの有用性を実証した。
●次世代半導体工場「Rapidus」と連動 日本を「AI最重要拠点」に据えたワケ
今回のThinkで気付いたのは、IBMのグローバルAI戦略において日本が極めて重要な役割を担っているということだった。クリーブランド・クリニックのタンパク質の3次元シミュレーションはその格好の事例だ。デジタル主権を保証する「IBM Sovereign Core」の実装においても、2025年10月に東京に開設された「IBM AI Lab Japan」がソフトウエアの開発などで重要な役割を担っている。AIラボは量子コンピューターの製造に必要な部材なども開発しているという。
IBMの研究所は世界に13カ所あるが、ボストンに近いケンブリッジのAIラボよりも日本のラボの方が規模が上回っている。
またIBMがニューヨーク州の州都、オルバニーの半導体工場で開発した半導体は、北海道千歳市に建設中の次世代半導体工場「Rapidus」で量産する計画だ。「IBM Sovereign Core」を担うための新たなデータセンターも6月に日本に開設する計画だという。
日本アイ・ビー・エムでCTOを務める森本典繁副社長は「IBMがグローバルに進めているAI、ハイブリッドクラウド、量子コンピューティングの3つの技術について、その全てを支える重要な開発拠点が日本にある」と指摘。IBMのAI戦略における日本の重要性を強調した。
●「SaaSの死」を打ち消すIBMのAI戦略
Thinkの期間中もIBMの株価は下がり続けたものの、IBMが「Anthropicショック」に立ち向かうAI戦略をきちんと示したことで、「SaaSの死」の不安要素はだいぶ打ち消されたように思える。
メインフレームが多数存在する日本企業としては、一刻も早く「AIファースト企業」に脱皮しなければ、新たなセキュリティリスクにさらされる可能性が否めない。
Thinkを訪れた多くの日本企業関係者も、AI時代のデジタル変革の重要性を再認識したはずだ。クリシュナCEOによれば「AIによる企業の経営変革は始まったばかりだ」という。重要なことは新しい技術にすぐ飛びつくよりも、自らの経営に必要な技術を見極める目を養うことだ。自らの技術を押し付けるのではなく、最適な技術メニューを提案するIBMの姿勢は、日本企業にとっても力強い味方となりそうだ。
●著者情報:関口和一(せきぐち・わいち)
(株)MM総研理事長、国際大学GLOCOM客員教授
1982年一橋大学法学部卒、日本経済新聞社入社。1988年フルブライト研究員としてハーバード大学留学。1989年英文日経キャップ。1990年ワシントン支局特派員。産業部電機担当キャップを経て、1996年より編集委員を24年間務めた。2000年から15年間、論説委員として情報通信分野などの社説を執筆。日経主催の「世界デジタルサミット」「世界経営者会議」のコーディネーターを25年近く務めた。2019年株式会社MM総研の代表取締役所長に就任。2026年3月よりMM総研理事長を務める。2008年より国際大学GLOCOMの客員教授。この間、法政大学ビジネススクールで15年、東京大学大学院で4年、客員教授を務めた。NHK国際放送のコメンテーターやBSテレビ東京の番組のメインキャスターも兼務した。現在は「CEATEC AWARD」の審査委員長や、「技術経営イノベーション大賞」「ジャパン・ツーリズム・アワード」の審査員などを務める。著書に『NTT 2030年世界戦略』『パソコン革命の旗手たち』『情報探索術』(以上日本経済新聞)、共著に『未来を創る情報通信政策』(NTT出版)、『日本の未来について話そう』(小学館)『新 入門・日本経済』(有斐閣)などがある。
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