写真「正義を振りかざす前に、相手の立場に立ってみろ。視点も変われば景色も考え方も変わる」
先日亡くなった大ベストセラー作家・東野圭吾の言葉だ。
9月13日に投開票が行われる沖縄知事選の投票率は、過去のデータからみれば、投票率はおそらく60%弱になると予想される。メディアやSNSを駆使して「選挙に行こう」といくら叫んでも、では、投票所に足を運ばない4割前後の人たちは、政治に何を感じ、なぜ一票を投じないのだろうか。
知事選のたびに「これで沖縄の未来が決まる」と、JAROに通報されそうなほど大げさに煽られてきたが、筆者には、今回ほど真の意味で沖縄の未来の明暗がはっきり分かれる選挙はないように思える。それほど、過去の選挙戦にはなかった構造的な歪みが、今回露呈している。
基地の中に沖縄があるのか、沖縄の中に基地があるのか迷うほど、国土面積の約0.6%しかない沖縄県に、全国の米軍専用施設面積の約70.3%が集中している。基地問題が日常生活と密接に関わる沖縄では、若い世代と政治について話す機会も少なくない。それでも「与党は何処って? 与論島でしょ」と国際通りで答える女子高生を前にして、“目からウロコが落ちる”体験もした。
◆辺野古を巡る構図に変化
今回の知事選では6名が立候補を表明しているが、3選を目指す現職の玉城デニー氏と前那覇市副市長の古謝玄太氏の事実上、一騎打ちとなっている。
この選挙が異質に見えるのは、争点が見えづらいことだ。
革新対保守という構図のなか、普天間飛行場の返還を大前提として、「辺野古移設」反対か容認かでの分かりやすい対決だった。反対派の革新系候補者は選挙公約に「辺野古反対」の文字を堂々掲げ、保守系は選挙期間中において真っ向勝負というより争点ずらしで闘ってきた経緯もある。それがーーだ。
今回、古謝玄太氏は「普天間飛行場の危険性除去の現実的な解決策」として辺野古移設容認を明確に掲げた。一方、玉城氏の政策の前面には従来ほど「辺野古」が出てこない。玉城氏自身は反対姿勢を維持しているものの、筆者には、今回の選挙では辺野古一本で戦う構図から距離を取っているように映る。知事職を2期8年間、辺野古移設をめぐる状況を変えられなかったことを、結果として認めたとも受け取れる。それに加えて、辺野古沖転覆事件についての原因究明や説明責任も十分に果たされず、こうした対応も含め、筆者は玉城県政の危機対応や調整能力には疑問を感じている。
それでもデニー人気は思ったほど陰りを見せなかった。現職の知名度プラスふわふわと包み込まれるような人の良さ、それと米兵とのハーフで父親はアメリカに帰国してしまったという自身の生い立ちも物語性を持ち、玉城氏の支持を支える一因になっている。
一方、古謝は那覇市副市長時代の功績に加え、元官僚ならではの人脈の広さと経済界と連携した活動を見せることで、選挙戦の見え方としては、玉城氏が基地問題や平和政策、古謝氏が経済成長や国・経済界との連携をより強く打ち出している。42歳という若さや行政経験に期待する声もある。
しかし、3月23日の出馬表明時の発言をめぐっては、一部から批判の声も上がった。政策自体ではなく、人間性に疑問符をつける声が上がったのだ。
出馬表明時に放った発言の真意をどうしても確かめたく、まずは古謝氏に会って話を聞かないと始まらないと思い、取材を敢行した。
◆「誤解を与えた」と即座に謝罪
選挙活動中の忙しいなかにもかかわらず、古謝氏は野球部出身らしいがっちりとした体格で、朗らかな表情を浮かべながら挨拶してくれた。限られた時間しかないなかで政策について幾つか質問すると、YouTubeに何本も公開されている三者討論(玉城デニー氏、古謝玄太氏、下地幹郎氏)での発言とは少しニュアンスを変えながら、懇切丁寧に説明してくれた。そして、頃合いを見て懸案事項の質問を投げかけると、
「そうですか……、初めて聞きましたが、わかります。誤解を与えてすみません」
言い訳するのでもなく、すぐに頭を下げた。
真意を確かめただけなのに面食らった。人は地位や権力を手にすると、途端に「ありがとう」と「ごめんなさい」を言えなくなる。この真摯な態度に、古謝玄太という人物の一面を見た気がした。
事の発端は、某新聞社の記者から辺野古移設容認について問われた際、古謝氏が「工事を巡る県の裁判もすでに終結をしておりますし、辺野古側の埋め立てがほぼ終了しているなど状況が変わってきております」と淡々と答えたことだ。少なくとも筆者は、この発言そのものに事実上の問題があるとは感じなかった。しかし、捉えようによっては「先人たちがずっと戦ってきた歴史を、国が決めたことだから仕方がないというのか」と解釈されたのだ。政治家はたとえ事実を述べようとも、ほんの少しのニュアンスの違いで簡単に信用が断たれるもの。
県民に寄り添う姿勢は、沖縄県知事にとって欠かせない要素だ。ずっと東京に住んでいた古謝氏には優しさがないと映ってしまったのだ。
このことを告げると古謝氏はすぐに理解を示し、頭を軽く下げた後にこう言った。
「この辺野古移設を巡っては、様々な立場の方が様々な手法も含めて議論をしてきました。様々な思いを持って裁判を起こしてきたというのは理解をしていますし、またかつての県民投票で反対の民意が多かったことも非常によくわかります。私も基地が全部なくなって、平和な沖縄が維持されるのであることが一番いいと当然思っております。辺野古移設が唯一ではなく、県外に移すという議論に対しても敬意を表しております。 ただ、今の現状を見れば、普天間飛行場の危険性除去のためには辺野古に移すことが一番早い方策と思っております。結果的に名護の辺野古付近の皆様には負担が生じるということも大変申し訳なくは思いますが、普天間の危険性除去という観点で言えば一番早い道筋ということで容認させていただいております」
噛んで含めるように丁寧に言葉を選びながら話し、最後にまた頭を軽く下げた。筆者には、その一礼が、負担を受け入れることになる辺野古周辺の住民へ向けられたもののように感じられた。
◆政策実現のカギは「連携」
デニー政権についての評価も尋ねてみた。
「結局、今の政権は経済、基地、インフラなど、どの分野においても他と連携できてないんです。県内の力をまとめきれてない。言うだけ言うんですけど、それで終わり。県単独で要請して終わりという形になってます。GW2050 PROJECTSについても経済界と連携できていない状態ですし、産業育成についても経済界と何かこれやっていこうという話があるわけでもない。市町村とも分断されていて、要請活動も別々になっている。当然国ともつながりが薄いですから『いや、要請はします』って言っても、本当に実現に向けて動けてないと思っています」
那覇市副市長を務めた経験から、古謝氏は県と市町村の連携に課題があるとみている。
沖縄では“”しがらみ“が強く、”つながり“も頻繁にある。それが沖縄の特徴の一つともいえる。“つなぐ力”を強調する古謝氏は、自ら掲げる政策には十分な実現可能性があると考えている。選挙のたびに掲げられる公約が、どこまで実現するのか。筆者自身、もう「絵に描いた餅」は見たくない。いい加減、溜飲が下がる答えを聞きたい思いに駆られる。
「今回まさにこの政治活動自体が経済界と一緒になってやっておりまして、様々な経済団体、中小企業も含めて選挙母体を作っていますから、一致団結してやっていけます。また市町村についても、那覇市の副市長もしておりましたし、41市町村の30ぐらいは今回支部長に就任をしていただいてますから、そこもしっかり一致団結ができます。これによって沖縄の声をひとつにまとめることができます。そして、実現する際には国との調整交渉が必要ですけれども、そこは私が働いてきた分野ですので、先輩後輩同期もいますし、政治家とのつながりもあります。その点でいうと、全国の都道府県につながりがある総務省の出身者という点では、全国の知事さんもよく知っているし、総務部長に同期がいたりしますので、案件によっては一緒になって国に要請することができる。こうしたつながりによって政策の実現性が高まっていくと思ってますね」
少なくとも今回の取材では、古謝氏は自身の行政経験や人脈を根拠に、政策実現までの道筋を具体的に説明した。筆者には、その説明は一定の説得力を持つように感じられた。
◆エリート官僚を襲った挫折
古謝氏が政策実現の強みとして繰り返し挙げるのが、総務省時代などに築いた人的ネットワークだ。県内屈指の進学校から現役で東大へ進み、さらに総務省へ。絵に描いたようなエリートコースだ。「やっぱりこういうエリートがやらないとね」と思う人がいれば、「エリートに何がわかる」と反発する人もいるなど捉え方は多種多様だ。しかし、古謝氏はただのエリートじゃない。ロックなエリートだった。
「大学院の23歳のときに国家公務員試験を受けるため予備校に通っている最中に、今の妻が妊娠し、国家試験に受かったので大学院を中退。それから急いで結婚式を挙げ、長女が生まれ、その3か月後に総務省に入るなど、ファンキーな一年でした」
23歳時に、妊娠、結婚、出産、中退、就職と、盆と正月が一緒に来たどころではないジェットコースターのようなめまぐるしい1年間を経験した古謝氏は、2008年に総務省に入省する。
しばらくは順風満帆だった。
初年度から岡山県市町村課に2年間、そして総務省の情報流通振興課・自治財政局調整課に3年間、内閣官房副長官補付に1年間、そして長崎県庁で財政課長などを歴任し地方行政の仕組みを学んだ。
12年目に復興庁に配属され、参事官補佐に任命されたときだ。秋も深まる11月、いつものように朝、通勤のために地下鉄に乗っていると急に頭が真っ白になった。
「やばい!」
ただごとじゃないと思った古謝氏は、通勤先の霞ケ関に着くひとつ前の駅で降りた。朦朧としたなかでベンチに座ってしばらく休んだ。原因はわかっている。福島復興の新プロジェクト立ち上げで省庁間対立・上司との関係・地元の温度差に挟まれ精神的に疲弊し、身体が限界にきてしまったのだ。病院に行こうか一瞬迷ったが、行けば必ず何らかの病名が付くだろうと考えた。このことがきっかけで、自分の人生を見つめ直した。結論を出すのにそう時間はかからなかった。今年度末に辞めるという決意を固め、ゴールを設定できたことで休職せず、残り4カ月は意地でも出勤し続けようと踏ん張れた。それでも通勤時の満員電車内で度々頭が真っ白になり、その都度電車から降りた。
そんな心身ともに限界に近い状態のなかで転職活動を始める。家族を養うための責任だ。
勤務中に「食事に行ってきます」と言っては面接を受け、おにぎりを食べて霞が関に戻るといった就職活動を並行しながら3月の退職までなんとか乗り切った。
古謝氏自身はこの経験を悲壮感たっぷりに語るわけではなく、「こんなこともありましたね〜」とあっけらかんだった。これも古謝玄太氏の一面だ。
◆古謝氏が語る「調整型」リーダー像
出馬表明から4カ月ほど経過し、三者討論が重ねられるなか、三者討論では、玉城氏には辺野古移設反対をどのように前進させるのか、古謝氏には所得倍増など掲げる経済政策をどう実現するのか、下地氏には辺野古を巡る独自案の実現性など、それぞれに具体策が問われた。筆者が今回特に注目したのは、古謝氏が政策実現の手段として繰り返す『連携』だった。一方、政策だけでなく、候補者自身の人物像も選挙では重要な判断材料になる。知名度で玉城氏に及ばない古謝氏は、自身のキャラクターをどう捉えているのだろうか。
「性格上、どちらかといえば調整力に強みがあると思います。強いリーダーシップで引っ張っていくよりは、いろんな意見をまとめていきながらひとつのプロジェクトを成功させていく形が多いとは思っています。タスク管理して、スケジュール管理するプロジェクトマネジメントですね」
古謝氏が自己分析するのは、強烈なリーダーシップで引っ張るタイプではなく、関係者の意見をまとめ、実務を進める「調整型」のリーダー像だ。また片腕になって実務をこなす人物は表立って評価されないことが多々ある。筆者には、この「調整型」という自己評価が、古謝氏の人物像を理解するひとつの鍵のように思えた。
「パイプっていう言葉はあまり使いたくないんです。ネガティブに捉えられる危険性もあるし、傀儡のような意味合いにも捉えられかねない。だから自分の言葉としてはパイプではなく連携交渉です」
物腰柔らかい印象の古謝氏が、このときばかりは強い語気で言う。
政策発表の際には、参政党の神谷代表が沖縄戦における日本軍の住民殺害を「例外」と表現したとされる動画について見解を問われる場面もあった。古謝は「参政党とは政策協定での範囲内として推薦してもらい、歴史認識については合意も議論もしていません。私個人としては、沖縄戦では20万人が亡くなり、日本軍による住民殺害があったことは間違いない事実であるという立場です」ときっぱりと明言した。
国に対して必要なことを主張し、関係機関と連携・交渉できる体制をつくる。それが「稼げる沖縄」「豊かな沖縄」につながるというのが、古謝玄太氏の揺るぎない理念である。
<取材・文・撮影/松永多佳倫>
【松永多佳倫】
1968年生まれ。岐阜県出身。琉球大学卒。出版社勤務を経て沖縄移住後、ノンフィクション作家に。プロ野球界の重鎮のインタビューをはじめ、スポーツ取材に定評がある。著書に『怪物 江川卓伝』(集英社)、『92歳、広岡達朗の正体』、『確執と信念 スジを通した男たち』(ともに扶桑社)、『第二の人生で勝ち組になる 前職:プロ野球選手』(KADOKAWA)、『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『偏差値70の甲子園 ―僕たちは文武両道で東大を目指す―』、映画化にもなった『沖縄を変えた男 栽弘義 ―高校野球に捧げた生涯』、『偏差値70からの甲子園 ―僕たちは野球も学業も頂点を目指す―』、(ともに集英社文庫)、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『史上最速の甲子園 創志学園野球部の奇跡』『沖縄のおさんぽ』(ともにKADOKAWA)、『マウンドに散った天才投手』(講談社+α文庫)、『永遠の一球 ―甲子園優勝投手のその後―』(河出書房新社)などがある。5月15日に江夏豊氏との共著『江夏の遺言』を刊行した。