
泣ける泣ける泣ける!!! 冒頭から申し訳ありません……。『これ描いて死ね』の視聴後、私は涙をこらえることができませんでした。漫画創作や漫画そのものに触れる喜びを扱った本作ですが、私自身、幼少期より2次元に育てられた挙句、漫画原作などを担うクリエイターになってしまったので、全く他人事ではなく、食らい過ぎてしまったのです。
【画像】報われるとはどういうことか? 生徒を通じて振り返る自己治癒の物語
本作の舞台は、東京の島しょ部、竹芝からジェット船で約1時間45分の位置にある伊豆王島(モデルは伊豆大島)。漫画が大好きな高校1年生、安海相(やすみあい)とその仲間たちを中心に繰り広げられる、漫画を巡る成長譚。
原作はとよ田みのる氏によって、小学館「ゲッサン」にて連載中の大人気漫画。マンガ大賞2023大賞受賞のほか、第70回小学館漫画賞受賞の話題作で、クリエイター界隈はもちろん、各界で熱烈なファンを獲得している注目作の1つです。
今回は、そんな『これ描いて死ね』を考察します。私自身、末端ながら漫画原作者としてラブコメを連載したことがありますので、クリエイターならではの葛藤や創作のモチベーションなどにも触れて行けたらと思います。
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TVアニメ『これ描いて死ね』の第1話を見た瞬間、私が思ったのは、これは漫画家を目指す話というより、漫画体験を描く話なのかなということでした。もちろん、安海や赤福、藤森、石龍たちが漫画創作に向き合い成長していく点は魅力ですし、主軸と言っていいですが、もう少し抽象的にとらえることも可能だと思っていて、そもそも漫画体験(ひいては物語体験)とは何かを表現しているような気がするのです。
世間一般に、漫画と現実を区別するのが大人、漫画は漫画なんだからという言説があるかと思います。この考え方に一定程度賛同する部分はあります。犯罪的な描写を現実に投影してはならないのは当然だからです。しかし反対する部分もあって、漫画や映画、アニメなど自分にとっての傑作に出会った時の感動を、これはフィクションだと簡単に割り切れるものでしょうか?
そうではないはずと、私は考えます。というか、そんな簡単に割り切れるなら、そもそも大して好きな作品ではないのでしょう。少女漫画や少年漫画、青年漫画など、世の中にはたくさんの作品がありますが、そこから得た感動は無意識のうちに現実に活かされているはずです。
こんな時、虎杖ならどうする? 銀さんなら? 炭治郎なら? ちいかわなら? 自分の好きなキャラが心の内側で、何かを語り掛けて来ることはあると思います。あるいはあんな風にカッコよく、かわいくなりたいと、目標になることもあるでしょう。
まさにそれを体現しているのが、主人公の安海相という人物。彼女はピンチになると「こんなとき、漫画の主人公なら?」と、相棒でありイマジナリーフレンドのポコ太に問いかけられ、等身大の自分より少し背伸びした、漫画の主人公となって、普段より頑張ることができます。
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その結果、赤福とも友達になれ、初めての漫画制作にチャレンジすることにも成功しています。安海の大好きな漫画「ロボ太とポコ太」が、ただの消費物ではなく、人生を支えるバイブルとして、安海を勇気づける相棒として、彼女の現実に影響を与えているのです。
そう、彼女にとって漫画と現実はある種、地続きであり、漫画で得た体験が現実に息づいているとも言えます。漫画を読んでいる時、特に自分の心に刺さる作品の場合は、主人公と一緒に困難を乗り越え成長しているはずで、その体験はいわば人生経験の一部なのです。
友達作りの様子を描く「ロボ太とポコ太」を先に読んでいた安海にとって、友達を作るという経験は漫画で辿っている(予行演習をしている)状態なので、その引き出しを使えば、現実でも友達作りができるわけです。ここに漫画は漫画、現実は現実などという安易な二元論は存在せず、漫画が現実に影響を及ぼしていることが伺えます。
安海の漫画に感動した、藤森心の行動にもそれは表われています。普段は引っ込み思案で、自分の意見を主張できない彼女が、安海の漫画に書かれていたセリフに心を動かされ、自分も漫画研究会に参加したいと、自ら名乗り出ます。これも漫画体験が、現実の自分を後押ししてくれた瞬間であったと言えます。
現実と漫画はシームレスに繋がっている。感動するとは、まさにその作品のキャラや精神、テーマなどを内面化することであり、知らず知らずのうちに、感動体験の何かが日々の言動の中に、にじみ出てしまうものです。どんなに成長して社会人になって、大人になっても、お年寄りになっても、大好きな作品との出会いがなかった事にはなりません。
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勉強や仕事、プライベートあらゆる場面で、大好きな作品の影響は何がしか出ているはずで、感動したら最後、簡単には消えてくれません。ゆえに苦しむこともありますが(特に手島先生の話はこっち側が多い)、ゆえに助けられることも当然あります。
本作を観て私が感じたのは、漫画は現実に息づいていて、現実に対して無力じゃないし、ポジティブな使い方をすれば、普段の自分より背伸びした自分になれる、そんな可能性を示唆してくれているのだということ。この辺りのフィクションと現実の関係性を、真摯に描いている時点で、私はもう涙腺がヤバかったです。
『これ描いて死ね』を考察:報われるとはどういうことか? 生徒を通じて振り返る自己治癒の物語『これ描いて死ね』は基本的に『葬送のフリーレン』と似たようなストーリー構造で展開されているように思えます。『葬送のフリーレン』は、勇者ヒンメルの没後、新しい仲間と共に、かつての旅路を巡り、当時のことを振り返るというお話です。
一方『これ描いて死ね』は、かつて漫画家だった手島先生が、新たな仲間(というか生徒)と共に、漫画創作を行う過程で、自分の漫画人生を振り返るという構造になっており、手島先生≒フリーレン、安海たち≒フェルンたちという図式は多少成り立つかと思います。
安海たち部員の活動を描きつつ、手島先生の過去を小出しに提示することで、お話全体としての軸感を作り、物語の求心力を生み出している点も、今の出来事を通じて過去をひも解いていくフリーレンの構成とやや近いものを感じます。
この構成の素晴らしい点は、過去の出来事が、今振り返ると別の意味で立ち現れて来るという表現ができるところ。条件が変わることで、世界を見るフィルターも変わり、意味のとらえ直しが始まる。本作で言えば、生徒たちの成長を通じて、手島先生にとっての暗黒の漫画家時代(ロストワールド時代)を振り返り、意味を編み直す、自己治癒の物語になっているのも面白いポイントです。
例えば、第2話、手島先生から漫画研究会の部活申請の許可を得るため、安海が初めて漫画を描く場面。構成もセリフもめちゃくちゃな作品を持ってくる安海でしたが、手島先生はそこに漫画への愛情と初期衝動を感じ取ります。その純粋さはかつて自分が持ち合わせていたものであること。
さらに自分の描いた「ロボ太とポコ太」のおかげで、漫画を描けたと安海に言われ、自分の漫画が誰かの人生を変えた、支えになったことを知り、手島先生は思わず涙を流してしまう。誰かに届いて欲しいと願って描いたものが、実際に誰かに届いている。創作者にとって、これほど報われる瞬間はないでしょう。
本作の公式ページにも「漫画を愛する全ての人に届けッ!」とあるように、描き手にとって一番うれしいのは、作品が誰かの心に届くこと。そのことが、それこそピュアに表現されている一幕であり、手島先生のすさんだ心が治癒された瞬間だったのかもしれません。
安海たちがコミティアで初めて漫画を売る時も、かつてコミティアで1冊売れた時の感動を思い出してウルッと来たり、仲間と共に創作に励む安海を見ながら、初めて漫画賞を受賞し編集者の金剛寺さんに「面白かった」と言われた時のことを回想したりと……手島先生は、封印したはずの過去を1つずつ振り返り、かみしめていきます。
特に泣かせるのは、第3話、金剛寺さんに手を差し伸べられた時、小さい頃の親友を思い出したというシーン。かつて好きだった「ドラえもん」を重ねて見てしまう場面ですが、まさに漫画体験と現実がクロスオーバーするところで、感動的ですよね。漫画を描きたい以前に、漫画が好きで漫画のような人生を送りたいという気持ちがある、漫画を通して世界を見てしまう、そんな漫画愛がにじんでいて、とても愛おしく感じてしまいました。
それによく考えると、文句を言いながら漫画を描く手島先生と、それをハイハイといなしながら優しく見守る金剛寺さんの関係は、のび太とドラえもんのそれを想起させるところがあります。さらに、そのバディ構造を自作の「ロボ太とポコ太」へ投影させ、その影響を受けた安海が今はポコ太を相棒として大事にしてくれている……。かつて「ドラえもん」を相棒としていた手島先生にとって、これほど嬉しいことはないはずです。
漫画家の先生が描いているので、やはり創作者が何を求めているかという点は、とても緻密でリアルだなと感じます。「この作品のおかげ」「面白かった」なんて絶対に一度は言われてみたい言葉ですから。
漫画原作や小説を書いている身として、今のところ私はこの手の感想を頂けたことはないので、手島先生がうらやましいところです……。いやいや、苦労が足りないのかもしれませんね。かのスティーブン・キング氏が言うように、創作は心の中を掘り進め、化石を見つけなければならない。こうした劇中に出て来る、創作を巡る考え方も非常にリアルで実践的です。
自意識爆発作品やSF、ファンタジー、ラブコメ……手島先生と同じく、私もいろいろ試してはいるのですが、化石はいずこに。まあ、ただこうした通用しない、通用しないを繰り返してしか、成長しないのも事実。手島先生が、壁に張っていた文言を胸に私も精進しようと思います。いつか報われる日が来ると信じて。そんな日、来るのかしら……。
『これ描いて死ね』を考察:毒親問題で片づけない。HSP的なキャラの描き方が、それこそ繊細である件最後に、個人的に心を動かされた第5話について語らせてください。コミティアへ参加するため、生徒がそれぞれの親に許可を取り付けるエピソード。言いたいことが言えない藤森が、厳しい母親へ参加をなかなか切り出せないという場面ですが、毒親問題に帰結していないところが素晴らしいと感じました。
2010年代くらいから毒親をテーマにする作品は人気を獲得する傾向にあり、繊細に扱ったものから、やや露悪的な復讐劇に仕立て上げるものまで、その種類はさまざま。これらは社会問題として深刻であるし、作品等で表面化させることの意味はあるかと思います。一方で、そこまで露骨な毒親ではないが、感謝しながらも親に対してモヤモヤを抱えているという、グレーゾーンが見過ごされてきた側面もあると感じます。
そんな中、周りに気を使い過ぎて何も言えないという、アダルトチルドレン的な問題を扱った作品が近年出始めている印象があります。例えば、昨今『天幕のジャードゥーガル』で話題の山田尚子監督が手掛けた『きみの色』などは、その好例かと思います。医者の息子として、いい子であることに徹しているが、実は音楽をやりたい想いを抱えている男の子をはじめ、家族に対して気を使っている少年少女の姿が丹念に描かれています。
仲間と共にささやかな抵抗を行い、ハレーションを生まない形で、家族に気持ちを伝えることに成功する物語なのですが、ここでも別に毒親じゃないけど、繊細過ぎて言い出せずに困ってる子供たちの姿が見て取れます。本作における藤森はまさにそれで、HSP(Highly Sensitive Person)のような、とても感受性の強いところがあるので、なかなか母親に意見したり、反論したりできずにいました。
そんな彼女が、漫画という手段を手に入れたことで、普段言えないことを漫画に込めて伝え、母親から了承を勝ち得ることに成功します。漫画があるおかげでハレーションを抑えながら、伝えることができる。
そして、大きいのは、仲間の存在です。藤森はそれまで友達がいなかったと言っていましたから、居場所と言えるのは、家と漫画の中だけだった可能性があります。つまり家庭環境が壊れた瞬間に、彼女の存在は危機を迎えてしまうわけです。すると、ほぼ唯一の居場所が壊れないよう、余計に気を使うことになるでしょう。
しかし、漫画研究会というサードプレイスができたことにより、1本足状態じゃなくなり、ようやく安心して意見を表明できるようになったというところがあります。自立というと、自分一人で立つというイメージがあるかもしれませんが、実際は必ずしもそうではなく、仲間がいるからこそ安心して自立できるという側面もあるはずです。『これ描いて死ね』では漫画研究会、『きみの色』ではバンド活動としてサードプレイスが表現されていました。
繊細な現代の子供が、ハレーションを起こさず、しかし親にちゃんと意見するための方法論を丁寧に積み上げているのが、第5話だったかと思います。しかも、母も悲しんでいるはずだと、母を悪魔化・毒親化せずに、エピソードを着地させている点も見事なバランス感覚と思います。
藤森の人物描写は特に洗練されている印象でしたが、こうした緻密なのにコミカルな描写が、本作の魅力を押し上げているのは間違いないでしょう。今後も各キャラの深掘り、成長を楽しみに見ていきたいですね。
