
生成AIの活用というと、全社を巻き込んだ大規模な業務改革をイメージしがちです。しかし、必ずしも最初から大きな仕組みを作る必要はありません。まずは、特定の部門が抱える身近な課題を解決することから、AI活用が広がっていくケースもあります。
建設機械メーカー・日立建機は、「一部門での深い業務変革」の事例です。
ここでのポイントは、ベテラン社員一人ひとりが経験のなかで培ってきた判断基準、いわゆる暗黙知を形式知化する手法です。AIを活用して暗黙知を組織の財産に変え、若手社員のサポート品質を底上げした日立建機の取り組みを深掘りしていきます。
●「宝の山」と言える情報資産を活用できていない
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AI活用の舞台となるのは、日立建機のコンストラクションビジネスユニットサービス統括部テクニカルサポート部です。世界中の顧客や販売代理店に対し、建設機械の操作・メンテナンス・修理に関する技術サポートを提供する部署です。
このテクニカルサポート部では「世界の日立ユーザーにずっと満足していただく」をミッションに掲げています。機械の故障による停止時間(ダウンタイム)を最小限に抑え、迅速で質の高いサポートを届けることが、全世界で同社の建設機械を導入する顧客の満足度に直結するからです。
テクニカルサポート部の主要業務のひとつに、「FIR(Field Information Report)」を介した問い合わせ対応があります。FIRとは、世界中の代理店のサービス担当者や整備士が、機械情報や現象、問い合わせ内容などを記入して起票するレポートシステムです。技術的な問い合わせだけでなく、不具合情報の共有などの用途にも活用されています。
日立建機の技術サポートは、「代理店・地域統括会社・テクニカルサポート部」の3層構造になっています。世界中で建設機械の販売・サービスを担う代理店が、エンドユーザーである顧客からの問い合わせを受け、そこで解決できない案件はFIRシステムを通じて各地域の地域統括会社へ渡ります。
さらに、そこでも解決できない案件が最終的に日本のテクニカルサポート部へと引き継がれます。問い合わせは、内容によって社内の品質保証部門や設計部門とも連携して対応します。その数は全世界で年間約4万件にものぼります。
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FIRシステムには、約20年分にわたるアフターサポートの膨大な事例が蓄積されています。世界中の代理店、地域統括会社、そして、日立建機の各部門をつなぐ同社の重要な情報基盤です。
ところが、同社ではこの「宝の山」とも言える情報資産がうまく生かしきれていませんでした。それどころか、問い合わせ対応は部署にとって大きな負担になっており、担当者によっては1日の3〜5割、経験の浅い若手社員にいたっては8割もの時間を問い合わせ対応に費やすこともあったと言います。
●迅速な顧客対応を妨げていた2つの問題
問題(1)情報検索の非効率性と属人化
問い合わせは世界中の拠点から届くため、その多くが英語です。内容の理解と翻訳だけで相当な時間がかかります。
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さらに、やっかいだったのは、対応内容の記録方法です。修理手順や対応プロセスは人によって状況も判断も異なるため、決まった書式で残すのが難しく、自由記述で書き込むのが通常でした。同じような不具合の対応でも、人によって書きぶりが異なります。
そのうえ、これらの対応事例を探す手段はキーワード検索に頼る部分が大きく、膨大な記録のなかから的確なキーワードを選び出すためには、長年の業務経験が必要でした。経験の浅い若手社員では、必要な情報にたどり着くまでに1時間以上かかることもあったと言います。
とはいえ、検索システムそのものの刷新は、要件定義から開発まで多大な時間とコストを要するため、現実的ではありませんでした。
問題(2)回答作成の負担
回答にも決まったフォーマットはなく、毎回ゼロから文章を組み立てる必要がありました。行き詰まる若手には、ベテラン社員がOJTでアドバイスします。しかし、そのベテランが不在のとき、若手は1件の対応に1時間、長いときは4時間を要することもあり、迅速な顧客対応のボトルネックになっていました。
この2つの問題に共通するのは「ベテランの頭のなかにしかない知見」に依存していたことです。「この問い合わせなら、過去のあの事例が近い」「この症状なら、こう解釈すべきだ」といった判断基準は、FIRやほかの社内情報で確認できるケースもありますが、多くの場合、経験豊富なベテラン社員に聞くしかありませんでした。
加えて、テクニカルサポート部は日本・アジア大洋州・米州・欧州といった地域ごとに 担当が分かれており、縦割りゆえに「ある地域で経験済みの不具合が、別の地域では共有されていない」という分断も起きていました。せっかくの知見が「人」にも「地域」にも閉じてしまっていたのです。
●ベテランの頭のなかにしかない知見を「型」にする
負担の大きかったFIR業務に対して、テクニカルサポート部はAIアシスタントの導入に踏み切ります。
FIRシステムには大量のデータが蓄積されていますが、過去の適切な対応事例を探し出し、有効活用するには時間と経験が必要でした。その解決のために作ったのが、「FIR要約&翻訳アシスタント」「FIR検索アシスタント」「FIR回答ドラフトアシスタント」と呼ばれる3つのチャットボットです。具体的な機能は図の通りです(図)。
テクニカルサポート部の齋藤信也氏が、アシスタント設計の軸に据えたのは、「ベテラン社員の業務ノウハウを、いかに生成AIに落とし込むか」という視点でした。
従来のキーワード検索では、検索ワードにヒットした過去事例が、ズラリと並ぶだけでした。そこから「どれが本当に関連するのか」「この事例は何を意味するのか」を読み解くには、ベテランの経験を要します。
対してFIR検索アシスタントは、「この事例とあの事例は機種は違うが、同じ原因の可能性がある」「この症状なら、まずここを疑うべき」といったベテランならではの読み解き方を、あらかじめAIに教え込んでおきます。
すると、AIは単に事例を並べるのではなく、ベテランの視点を通して整理した「解釈済みの情報」を示してくれます。経験の浅い若手でも、ベテランが読み解いたのと近いかたちで、過去事例の意味を受け取ることができるのです。
齋藤氏はこれを「世界中のサービス員が埋め込んでくれているノウハウを一瞬で引き出して活用できる体験」と表現します。
●小さな成功体験の積み重ねが「点」から「線」へ広がりを生んだ
部内30人から始めた地道な普及
AIアシスタントを作ったあと、齋藤氏は地に足のついた普及活動を展開します。テクニカルサポート部内約 人のメンバーにAIアシスタントを使ってもらい、勉強会で使い方を伝えていきました。
「メンバーからのフィードバックをもらい、改善を重ね、結果を出す。この地道なサイクルをずっと回してきました。小さな成功体験をひとつずつ積み重ねていくのがコツなんです」(齋藤氏)
このサイクルが回り始めると、変化は「過去事例を探す」の外側にも及びました。関連マニュアルの検索、部内に埋もれたメールの検索、回答ドラフトの作成と、隣接する工程が次々とAIアシスタント化されていきます。
「最初から完璧なフローを設計して効率化を図るというのが、一般的なパターンだと思います。でも、私たちは、目の前の『点』の業務の効率化をひとつずつ図っていきました。その結果、プロセス全体が整理され、『線』の効率化につながったんです。いま振り返ると、逆説的なアプローチだったと思います」(齋藤氏)
議事録作成アシスタントが部門を越えてAI への関心を広げた
この取り組みが社内に知られると、「自分たちの部署でもやってみたい」という声が他部署から届くようになります。号令ではなく、聞いた人が自分の業務に引き寄せて動き始めたのです。
その広がりを決定づけたのが、会議の議事録でした。部署も職種も関係なく誰もが抱える業務であり、精度を重んじる文化のなかで、作成にも確認にも時間がかかっていました。
齋藤氏はここに目をつけ、社内会議用の議事録作成アシスタントを作って、実際の会議で使ってみせます。こだわったのは、単に議事録を自動作成させることではありません。
「業務ごとに異なる実際の会議スタイルに沿って、議事録には何がどのような粒度とニュアンスで記載されることが望ましいのか」
この視点から会議のあるべき姿を数行のプロンプトに書き込んだのです。会議が終わったその場で、要点の整った議事録が共有されると、参加者の驚きは二重でした。「なんでこんなに早いのか」という速さと、「きれいにまとまっている」という質。そして、必ず「この議事録、どうやって作ったの?」と聞かれます。専門知識の説明ではなく、目の前で起きた体験が、AI活用の心理的ハードルを下げたのです。
齋藤氏とともに、社内のAI活用推進事務局として全社への広がりを見てきた、日立建機のアフターサービスソリューション「ConSite」のAI開発推進を担っている家村美代子氏は、このときの反応を次のように振り返ります。
「『この議事録、どうやって作ったの?』『AIアシスタントを使ったんだよ』という会話から、問い合わせが大きく増えました。FIRでの事例展開と議事録作成アシスタントの紹介が重なった時期でもあり、そこからAI活用が急激に伸びました」
問い合わせは「使いたい」で終わりません。「自分の会議ではこうして欲しい」というリクエストがAI活用推進事務局に集まり、それに応え続けた結果、多くの部署が使いやすい議事録作成アシスタントに落ち着きました。
使う人の声が設計を鍛え、鍛えられた設計がさらに使う人を増やす。とりわけ若手社員はAIへの抵抗が少なく、便利だと感じれば周囲に自然と広めていきます。以前は新しいやり方への抵抗もありましたが、いまでは「あれ使ったら?」と社員同士が勧め合うようになりました。
議事録作成アシスタントがAIそのものへの関心を広げ、FIR検索アシスタントが本丸の業務改善を進める。この2つが両輪となって口コミの連鎖により、AIはアフターサポート関連部門から他事業部へと着実に広がっていきました。
●若手とベテランの働き方が同時に変わった!
日立建機のAI活用の成果は、数字に如実に表れています。
若手社員の場合、過去事例の検索・分析時間は20〜60分から10〜30分へ、1件あたりの総対応時間も1〜4時間から0.5〜2時間へと半分の時間で完了できるようになりました。仮に、この業務改革が部署全体に浸透すれば、月間400時間以上の工数削減が達成できる計算になります。
数字のみならず、定性的な品質の面でも効果が出ています。齋藤氏たちは過去のFIR問い合わせ案件のデータをもとに、AIアシスタントを使った場合と従来の対応とで、回答の質がどう変わるかを比較検証してみました。すると、約7割の問い合わせ対応で「品質向上が見込める」という結果が出たのです。
例えば、「エンジンのアイドリング時に異音がする」という問い合わせに対しては、「インジェクターを点検したほうがいい」「フィルターを点検したほうがいい」といった点検箇所のアドバイスを回答してくれます。AIアシスタントを使うと、こうした点検項目を漏れなく挙げてくれるだけでなく、一つひとつの回答の精度も向上しました。
これまで回答の質は、担当者がどれだけ過去事例を知っているか、つまり、個人の経験量に左右されていました。その点、膨大な過去事例の知見をAIが網羅的に収集・整理してくれれば、若手でもベテランと同じように必要な事例にアクセスできます。
●最大の成果は「世代を超えた技術伝承」
日立建機の事例が示唆に富むのは、若手とベテランの双方の働き方が同時に変わったことです。
それまで若手社員は、FIRやほかの社内情報を確認して答えが見つからない問題に直面すると、経験豊富なベテラン社員に聞くしか術がありませんでした。
一方、ベテラン社員は「○○さんに聞けば、たいてい答えてくれる」と頼られる存在であるがゆえに、若手・中堅からの相談が集中。自分の業務をこなしながら教える時間も捻出しなければならないという慢性的な忙しさを抱えていました。
FIR検索アシスタントは、この構造を大きく変えました。若手はアシスタントに尋ねれば、ベテランの思考プロセスを介したアドバイスにアクセスできます。
出張で世界各地を飛び回るベテランがその場にいなくても、「いつでも、どこでも、一番詳しい人に聞ける」状態が成り立つのです。
一方、ベテラン側にとっても、自分の頭のなかにあった言語化しにくい判断基準が、若手にも使えるかたちで蓄積されることで、自分の業務に集中できる時間が増えました。
「若手の成長とベテランの時間。両方が同時に得られたという実感がありますね」と齋藤氏も手応えを感じています。
日立建機がAIアシスタントの導入によって実現したのは、単なる業務効率化だけではありません。ベテランの思考プロセスを新人がAIを介して追体験することで、若手の業務遂行能力そのものが底上げされ、人が育ち、組織の業務水準が上がっていきました。
「世代を超えた技術伝承」こそが、この事例から私たちが受け取るべき最大のメッセージなのです。
●「問い合わせの発生自体をなくす」という目標の上位化
日立建機の取り組みは、まだ発展途上にあります。
現在の活用は、テクニカルサポート部などアフターサポート関連部門が中心で、部内の利用率は5割程度(2026年7月時点)にとどまっています。今後はわかりやすいユースケースを増やすことで部内全体への浸透を図り、さらにはDX推進部門や経営層と連携しながら成功事例を他部門に横展開していく必要があります。その先に見据える目標が、「代理店による自己解決率の向上」です。
前述した通り、日立建機の技術サポート体制は「代理店・地域統括会社・テクニカルサポート部」の3層構造になっています。世界各国の代理店が顧客からの問い合わせを受ける最初のタッチポイントを担っています。
そこでテクニカルサポート部が目指しているのが、部内で確立されたAIアシスタント活用のノウハウを現場サイドにも展開していくことです。代理店のサービス担当者や整備士が、自分たちでAIアシスタントを使って一次解決できれば、上位層への問い合わせ件数自体が確実に減ります。さらに回答のスピードも向上し、ユーザーの満足度向上にもつながります。
同社の試算では、代理店から地域統括会社に上がってくる問い合わせ件数を8割削減できる可能性があると検証されています。齋藤氏はこれを「目標の上位化」という言葉で説明します。
「私たちテクニカルサポート部が問い合わせに対して迅速に回答するという目標から、『そもそも問い合わせの発生自体をなくす』へ。KPIそのものを引き上げていきたいと考えています」
さらにその先には、より大きな構想も見据えています。FIRを通じて世界中から集まる顧客の声を設計や品質保証など他部門へと還流させ、製品・サービスの改善につなげていきます。
また、テクニカルサポート部を世界中のユーザーの声を起点に製品を進化させる「最前線のハブ」へと進化させていきます。そうした事業構造そのものの変革にまで、視野は広がっているのです。
AI活用は一部門の効率化にとどまらず、新たな価値創出の源泉となる可能性を秘めています。
●日立建機から学ぶAI活用成功の秘訣
(1)ベテランの思考プロセスをプロンプトに組み込んだ
FIR検索アシスタントには、「こういう具合にレポートを解釈して欲しい」というベテランならではの暗黙知が、プロンプトとしてあらかじめ組み込まれています。検索を速くするだけでなく、「どう解釈するか」をアシスタントに乗せたからこそ、若手はベテランの判断を追体験できるのです。
効率化ではなく、人材育成と技術伝承にゴールを置いたことが、この事例を一段深いものにしています。
(2)「探す」のボトルネックを突破口に業務工程を点から線へつないだ
最初から完璧な業務フローを設計したわけではなく、業務工程のなかで最大のボトルネックだった「探す」をFIR検索アシスタントで突破しました。その成功を皮切りに、関連マニュアルの検索、部内のメールの検索、回答ドラフトの作成と、ほかの工程にもAIアシスタントが派生していきました。
齋藤氏はこれを「目の前の課題をひとつずつ効率化していったら、結果としてプロセス全体が整理されていた逆説的なアプローチ」と振り返っています。
(3)現場の小さな成功体験を積み重ね、口コミの連鎖で広げた
部員約30人のなかで、齋藤氏は業務を助けるAIアシスタントを作る→勉強会で使い方を伝える→使われ方をモニターする→フィードバックを反映するというサイクルを地道に回し続けました。さらに、議事録作成アシスタントの展開が「これどうやって作ったの?」という声を呼び込み、FIR事例と重なって利用が一気に拡大しました。
トップダウンの号令ではなく、現場発の小さな成功と人から人への口コミの連鎖が定着を支えたのです。
(園田亜斗夢、川俣彰広)
※この記事は、書籍『AIエージェント組織実装の最適解』(園田亜斗夢、川俣彰広/クロスメディア・パブリッシング)に、編集を加えて転載したものです。なお、文中の内容・肩書などは全て出版当時のものです。
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