まだまだ夢は捨てたもんじゃない。そう思わせてくれるドラマがあった。今年7月1日の新潟・デンカビッグスワンスタジアム。陸上日本選手権女子800メートル予選第3組。自身のタイムが2分4秒79と記された電光掲示板を見て、山田はな(30=わらべや日洋)は号泣した。決勝に進出することが確定する2位以内を逃したからではない。8年ぶりの自己ベストを更新したからだった。
「もう超うれしかったです。超泣きました。ゴールして、掲示板にタイム出るまでタイムラグがあるから『早く早く早く』と思っていて、(ベストタイムが)出て、もうガン泣きしました」
ここまで苦しむとは思わなかった。新潟南高1年で本格的に800メートルを始めると東京学芸大4年まで7年連続で自己新記録を出し続けた。「普通にやれば出るものだと思っていました」。きつい冬季練習に耐え、シーズンが始まれば自然と結果はついてきた。
シンデレラストーリーを紡いできた。高校時代のベストは2分13秒27。全国的には無名だったが、大学で急成長した。初出場した大学3年の15年日本選手権で初優勝。20歳だった。その年は関東学生対校選手権(関東インカレ)、日本学生対校選手権(日本インカレ)も制して3冠を達成するなど敵無し状態。競技歴の浅さもあって今後への期待は膨らむばかりだった。
翌年の日本インカレで自己ベストを2分5秒46秒まで縮めた。16年9月4日、熊谷スポーツ文化公園陸上競技場。調子や競技場など、条件的に新記録が出ると思っていなかったが、普段以上の力が出た。自ら「マジック」と表現したように、仲間からの応援や、最後のインカレといった要素で出た新記録だった。日本選手権でも2位とトップクラスを維持したが、社会人1年目に連続自己新記録が止まった。人生初のできごとに戸惑った。何かを変えなければ−。
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17年の冬から初めて本格的なウエートトレーニングを取り入れた。それまでは補強程度にしかやってこなかった。「筋肉が大きいとそこに供給する酸素量も多くなるし、最後に乳酸で固まったりするから筋肉って重りにしかならないと思っていました」。毎年ベストが出ていたこともあってその必要性を感じていなかった。しかし背に腹は代えられない。大学のOBを頼って正しいフォームでの筋力トレーニングを始めた。
ただ春になって迎えた社会人2年目も記録は伸びなかった。その後も毎年テーマを持って冬季練習をしたが、春以降のシーズンで結果には表れなかった。ケガも経験した。21年8月末から翌年2月中旬まで舟状骨の疲労骨折で走れなかった。29歳を迎えた昨オフ。持ち前の行動力が自身を助けることになった。
走りのメカニズムを学ぶため、アスリートの能力を引き出すための専門家集団「FIRST TRACK」の主催する一般ランナー向けの講習会に申し込んだ。意識の高い市民ランナーに混ざってトレーニングに参加。パリオリンピック(五輪)男子マラソン代表の大迫傑(33)をサポートする五味宏生氏らで構成されるチームの練習は目からうろこだった。講師陣も山田の存在は認識していたといい、その場で連絡先を交換し、継続的なサポートを受けることとなった。現在は理学療法士の佐橋魁(かい)氏に毎月3度ほど見てもらっている。
「今までは振り子戦法でした。振りの子の原理で骨盤を動かしているようなイメージ。末端の筋肉で走っていて、腕と足の連動をちゃんとできていなかったんです。筋力は増えたけど、それを使えていなかった」
エネルギーが外に逃げてしまうような足の運びになっており、うまく前進できていなかった。「今もまだまだですけど、当時はもっとできていなくて。恥ずかしがらずに教えてもらおうと思いました。本当によかったです」と勇気を振り絞った過去の自分に感謝した。
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走りの感覚が変わった。これまではレースの中で、いかにキツさを我慢するかが勝負だった。今は、エネルギー効率をよくすることで、いかにキツくなく600、700メートルまで省エネで走り、最後粘るかという思考に変化した。その感覚をつかみつつあったから、日本選手権のときは、いつもは怖くて仕方ないレース前もワクワクする気持ちがあった。
「800メートルは、200メートルごとにタイムの目安にしますが、日本選手権の1週目(400メートル)はたぶん今までで一番速かったです。600メートルもおそらくベスト。普段ならそこで乳酸が出て足が止まりかけているけど、その時は『ここからもう一発いける』という感覚がありました」
昨年秋から取り組んできた成果を大舞台で発揮した。30歳手前で、7年間でなかったパーソナルベストが出た。15年の日本一の際は、周囲から「なんでその走りで速いのか」と首をかしげられるほどの走り方だった。一から見つめ直し、歩き方から変えた。体幹部や尻など大きな筋肉を使って体を動かすことを日頃から意識した。佐橋氏からは「まだ30%くらい」と言われているそうだが、腕と足が連動するスタイルへ、モデルチェンジに成功した。
陸上への向き合い方も変わった。これまでは「キツいが正義」だった。種目の特性か、周りにもまじめでストイックな選手が多く「キツいことをやっていた方が精神衛生上良い」「やらないと不安」という思考になりがちだった。骨折や社会人での陸上生活を通じて「自分の今の体と心の声を聞いて、ちゃんと意味あることをしよう」というマインドに変化した。新たな走り方をマスターする上で技術練習も増え、純粋に走る量は学生時代より減った。それでもベストが出たことで、この考え方が確信に変わった。メンタル的な充実も結果につながった。
今年30歳。日本選手権の同種目エントリーの中では最年長だった。自分のことだけでなく、女子800メートル界全体のことを考えるようになった。同種目は久保凛(16=東大阪大敬愛高)や田中希実(25=ニューバランス)らの出現で、大きな盛り上がりを見せている。有力選手の合同トレーニングでは若手が入りやすいように明るい雰囲気づくりを意識する。年を重ねている分、知り合いも多い。「キツい種目だし、みんなで仲間意識を持ってやりたいから、そういうのも自分の仕事かなと思っています」。“やまはな”の愛称で世代問わず愛されるゆえんである。
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引退する仲間も増えてきた。アスリートとしての今後はどう考えているのか。「ベストはもちろん更新したいけど、タイムというより、勝負をしたいです。私、勝負が好きなんです。今回はただ(先頭に)引っ張ってもらっておんぶに抱っこでタイムを出させてもらった感じなので、自分でペースをつくってちゃんと勝負をしたいです」と陸上競技の原点を追求する。まだまだ燃え尽きていない。伸びしろを強く実感している。「燃え尽きなかったらどうしよう」と笑った。“山田はなVol.2”は始まったばかり。止まらずに行く。三十路(みそじ)に花を咲かせる。【佐藤成】
◆山田(やまだ)はな 1994年(平6)9月17日生まれ、新潟県出身。中学まではバスケットボールに打ち込み、新潟南高時代に本格的に競技を始める。13年東京学芸大に進学。15年に日本選手権初出場初優勝。関東インカレ、日本インカレと合わせて三冠達成。卒業後はわらべや日洋で現役を続ける。
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