プロレスラー・西村修さん死去 53歳 新日本プロレスリングが発表 プロレスラーで東京・文京区議会議員の西村修さんが28日に死去したことが明らかになった。53歳。元所属先である新日本プロレスリングが同日、公式サイトで発表した。
【写真】この2ショットはもう見られない…武藤敬司、西村さんを追悼 同団体は、「【訃報】元新日本プロレスのプロレスラー、西村修さんが逝去」と題し、「元新日本プロレスのプロレスラーで、東京・文京区議会議員の西村修さんが2月28日に逝去していたことがあきらかになった。享年53歳」(原文ママ)と報告。
その後、西村さんのこれまでの功績を振り返りつつ「2024年に検査の結果、食道がんを患っていることが判明し、ステージ4であることを公表。闘病生活を続けていた」と伝え、「謹んで、西村修さんのご冥福をお祈りいたします」と結んだ。
またこの一報を受け、武藤敬司も自身のXを更新。「西村修選手が亡くなられた。闘病生活をしていることは聞いていたけど、あまりにも早過ぎる。本当はプロレスにしても政治家としてもやりたいことがまだまだ一杯あったはずだ」とつづり、「新日本プロレス時代、全日本プロレス時代に酒を飲みながら夢を語り合ったこと、忘れません。心からご冥福をお祈りいたします」と早すぎる死を悼んだ。
■報告全文
【訃報】元新日本プロレスのプロレスラー、西村修さんが逝去
元新日本プロレスのプロレスラーで、東京・文京区議会議員の西村修さんが2月28日に逝去していたことがあきらかになった。享年53歳。
西村さんは、1990年4月に新日本プロレス入門して、91年4月21日に飯塚孝之戦でプロデビュー。93年の第4回ヤングライオン杯に準優勝し、同年にはアメリカへ海外武者修行へ出発。94年には会社から帰国指令が出るも、これを拒否して海外遠征を続行。95年10月に帰国して、同年10月29日、藤波辰爾の自主興行『無我』旗揚げ戦に参加して、以降はレギュラー出場。その後、新日本プロレスにも参戦したが、97年には再度の海外再修業へ旅立ってカナダ、オーストリアやドイツを転戦。
98年1.4東京ドームでは、藤波とのタッグで中西学&小島聡組と凱旋試合で、小島に勝利。2月にはIWGPヘビー級王座に初挑戦。同年8月には『G1 CLIMAX』初出場をはたしたが、その後は後腹膜腫瘍の治療のために欠場。2000年6月に日本武道館での藤波戦で復帰をはたす。同年、フロリダ州タンパに移り住み、カール・ゴッチやドリー・ファンクJr.と親交を深め、クラシックなレスリングを追求していく。2001年9月23日には、藤波とのコンビで、天山広吉&小島聡組から、IWGPタッグ王座を獲得。2004年には、映画『いかレスラー』に主演して話題となる。2006年1月24日に新日本プロレスを退団。以降は、無我ワールド・プロレスリングや全日本プロレスなど、様々な団体に参戦して活躍。
2011年4月には文京区議選に出馬、見事に当選して、政治家とプロレスラーの二足のワラジを履くことに。2011年10月3日には、新日本プロレスの後楽園ホール大会での天山デビュー20周年記念試合に出場。金本浩二&大谷晋二郎とのトリオで、天山&蝶野正洋&ヒロ斎藤組と対戦した。2024年に検査の結果、食道がんを患っていることが判明し、ステージ4であることを公表。闘病生活を続けていた。
謹んで、西村修さんのご冥福をお祈りいたします。
新日本プロレスリング株式会社