地域の笑顔に背を押され 輪島の菓子店4代目、二重被災から再起へ

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2025年04月01日 08:31  毎日新聞

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吉野屋の思い出を語る4代目主人、吉野博司さん(中央)と父一吉さん(左)、母啓子さん=石川県輪島市町野町で2024年12月10日午後9時12分、大坪菜々美撮影

 石川県輪島市町野町で100年近く続いてきた和洋菓子店の4代目主人が、能登半島地震やその後にあった豪雨に翻弄(ほんろう)されながらも再起を期している。一度はあきらめかけたが、地震から1年となった今年の元日のイベントであふれた地域の人々の笑顔に背中を押された。


ごみ集積場で真っ黒に


 まだ寒さが残る3月のある日。吉野博司さん(49)は朝6時半ごろ、「吉野屋」と書かれた車に乗り込み、自宅のある町野町から約1時間かけて同県穴水町の災害ごみ集積場へ向かった。倒木や瓦などを積んだ4トントラックを誘導し、手には軍手をはめてごみを分別する。「仕事をいただけるのはとてもありがたいです。ただ今ごろはお菓子を売っていたはずなのに」。菓子職人には似つかわしくない日焼けした顔に苦笑を浮かべた。


 吉野屋は1926年創業。大粒で色鮮やかな赤色が特徴の地元や同県能登町産の「能登大納言小豆」を使った自家製あんこを包むどら焼きやもなかが名物。町野町に工場兼販売所の本店があり、地元に根付いた老舗だ。


 だが、地震で木造2階建ての本店は1階が完全に押し潰されて全壊。看板は大きく傾いた。避難所の市立町野小学校で生活を始め3週間近くがたった頃、ごみ集積場のアルバイトの話が舞い込んできた。吉野さんには子どもが3人。わずかでも生活資金が必要で、すぐに手を挙げた。


 週6日、日が照り続ける夏もひたすら働いた。5〜6カ月がたち、心のどこかでは和菓子を作りたいと思っていた。だが作る場所がなく、一歩前に出ることができなかった。そんな様子を見かねてか、同年代の仲間から「吉野屋のお菓子を食べたいって言う人がいるのだから、早く行動を起こさないとだめじゃないか」と叱咤(しった)され、目が覚めた。


残った機器も泥まみれ


 同じ頃、町野町で仮設商店街建設の話が持ち上がり、他の飲食店仲間と2024年12月23日のオープンを目指した。祭りなどにも積極的に参加。疲労がたまったアルバイト終わりに小豆を炊くこともあった。あるとき、イベントであんこを餅に付けている様子を見ていたバイト仲間に言われた。「やっぱり、お菓子を作っている顔が一番いいわ。生き生きしとる」。12月の開店まであと少し。だがそんな時、水害に見舞われた。9月の能登豪雨だった。


 倒壊した本店近くの鈴屋川が氾濫し、約50〜60センチまで浸水。仮設商店街で使用するために本店に仮置きしていた餅つき器やオーブンは泥まみれとなり、どら焼きを焼く機械や冷蔵庫も流された。今もどこにあるか分からない。何が残っているのかすら確認する気になれなかった。「あほらしい。片付けても一緒や」。3代目の父一吉さん(73)にも「もう商売はできんな」とこぼした。


 吉野さんだけでなく、他の商店主らも二重被災の心労などから、仮設商店街の計画は中断となった。


創業100年に向け再興


 年末近くになって地元の銭湯で顔なじみのスーパーマーケットの社長に偶然会った。「元旦に餅つきをしたいから力を貸してほしい」と頼まれ、それならばと一吉さんらとあんこ餅ときなこ餅300食を地域の人々に振る舞った。おいしそうにほおばる人々の表情に、しばらく忘れていた思いがあふれた。「もう一度、店をやろう」


 仲間に呼びかけ、仮設商店街の準備を再開させた。この夏のオープンを目指す。町野町では地震以降、住民が減り商店経営の課題もある。だが、これまで支えてくれた場所で続けたいと思う。


 「100年近く続けられたのは地元のおかげ。新人の気持ちでゼロからスタートしたい」。商店の復活が、復興の一歩に必ずなると信じている。【大坪菜々美】



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  • 大変不謹慎かつ現地の方々には申し訳ないと思うが「地域の笑顔」を「地獄の笑顔」と素で見誤った。毎日の記事には「美談に仕立てるために過度なプレッシャーを与えていないか」と思うものが多い。
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