
今年は阪神淡路大震災から30年目です。地震が起きた1995年に神戸で生まれた、MBSの清水アナウンサーが、当時の映像を見ながら、取材する側、される側の葛藤を取材しました。
【写真を見る】「カメラ撮るヒマあったら手伝え!」取材する側される側の葛藤…“知らない世代”が見つめた阪神・淡路大震災【報道特集】
“知らない世代”が見つめた阪神・淡路大震災1995年1月17日の阪神・淡路大震災。震度7の激震が兵庫・神戸市を襲い、6434人もの命が失われた。
女性
「消してよ!何でテレビ局が家に来て、消防車が来ないのよ。燃えているのよ、私のお家」
男性
「ばあちゃん、ばあちゃん。わかる?わかるー?」
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30年前、MBSの清水麻椰アナウンサーの両親が住んでいた家は半壊した。
MBS 清水麻椰アナウンサー
「もう建て替わって違う建物になっていますけど、30年前、家族が住んでいたところですね」
近所の住民に当時のことを聞いてみた。
清水アナウンサー
「30年前なんですけど、地割れがひどかったって」
住民
「そうですよ。若い人たちに震災のこと、知っていただけたらいいなと思いますね。この被害、 経験は、ずっと語り継いでいくべきだと思う。若い人が」
清水アナウンサー
「ここで両親が生き延びていなかったら、私生まれていないんですよ」
住民
「感謝やね。両親に感謝、周りに感謝やね」
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地震が発生した1995年の12月に生まれた。神戸の美しい夜景を望める六甲山系の摩耶山にちなんで、「麻椰(まや)」と名付けられた。復興と成長の希望を込めて。
両親から地震の怖さを教えられて育った。放送局に入って報道番組を担当するようになっても、震災の取材をどこか避けてきた。
清水アナウンサー
「震災を知らない私が、どう伝えるべきなんだろう。何度も何度も考えたんですけど…」
神戸で生まれ、震災を知らない。風化が進む30年目の今こそ、向き合うべきではないか。当時の映像を見て、震災の記録をたどることにした。
「カメラ撮るヒマがあったら手伝え!」取材する側 される側の葛藤阪神・淡路大震災が起きた午前5時46分。大阪市にあるMBS・毎日放送も激しい揺れに襲われた。
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宿直勤務の仮眠室で飛び起き、カメラにすぐ手を伸ばした、入社1年目の工藤輝樹カメラマン。
少ない情報から工藤カメラマンは西へ向かう。
工藤カメラマン
「西宮市の阪神高速道路です。高架道路が垂れ下がっています」
「かなりの角度で道路が傾いています。上り線下り線とも走っていた車がすべて、左側の隅に」
2024年9月、地震直後からカメラを回し続けた工藤カメラマンに当時の話を聞いた。
MBS人事局 労政部 工藤輝樹元カメラマン
「(西へ)進めば進むほど、全体がひどい被害状況で、(撮影で)どこを切り取っていいのか分からない」
清水アナウンサー
「目の前で亡くなっているわけですよね。その時の工藤さん自身の感情はどうだったんですか」
工藤元カメラマン
「確かに、こんなひどいものを撮って、となりますよね。本当にそれを視聴者が求めているかといえば…求めていないものをわざわざ撮影する意味はないのかなと思いますけど」
清水アナウンサー
「その葛藤に、答えはあるんですか」
工藤元カメラマン
「ないと思いますね。ただ、こういう仕事を選んで、している立場であれば、目の前に展開したものはすべて撮る。記録がおろそかになると取材対象にも失礼ですし、結果として、情報は不完全になってしまう」
もう一人、大阪市内の自宅から、いち早く神戸へ向かった新人記者がいた。
羽根俊輔記者は、兵庫・西宮市のマンション倒壊現場で取材を始めた。
羽根記者
「ここは西宮市の夙川の駅前です。私の後ろにありますように、マンションが、ほとんど倒れてしまっています。出入口は完全にふさがっておりまして、皆さん窓から出入りしておられるような状態です」
室内には閉じ込められた人がまだいた。救助する人々を、カメラでとらえていた羽根記者に強い言葉が。
羽根記者
「4人、ひとがいるんですか」
住民
「カメラ撮るところやないで、手伝えよ」
「カメラ撮るヒマあったら手伝えって!」
この日、被災地からリポートを続けた羽根元記者にも話を聞いた。
MBS報道情報局 羽根俊輔元記者
「すごく衝突というか、現場の人たちに怒られて。『そんなヒマあったら手伝えー』と、怒鳴られるようなことが段々起きてくる」
清水アナウンサー
「本当に目の前で人が死にかけているとなると、私はカメラを向ける勇気がないです」
羽根元記者
「僕もそこは一緒で、目の前で足が見えているとか、リアルに人と向き合っていたら、それはみんなやりますよ、もちろん。知識として、まだここに人が埋まっているんです。重機持ってきてもどうにもならないことって直感的にわかるじゃないですか」
清水アナウンサー
「でもこういうお話を聞いて、(当時の)映像を見ると、想像しただけですごく怖いんですよ。(自分なら)何もできる気がしないというか」
地震当日の夕方、神戸市内の市営住宅に到着した羽根記者は、建物の中に入り取材を続けた。
4階部分が崩れているという建物内にて、声をかける。
羽根記者
「どなたかいらっしゃいませんか。いたら返事してください」
女性
「います2人。年寄りと私。足の悪い年寄りと私」
羽根記者
「今どのような体勢でいらっしゃいますか」
女性
「空間があるからそこに座っています。年寄りは座れない。足が悪いので寝た状態」
羽根記者
「今、自衛隊呼んでいますので」
女性
「なかなか(助けが来ない)ですね。もう限界ですわ」
女性は、同じ場所に建て替えられた市営住宅に、今も住んでいることが分かった。
当時50代だった、中里謹子さん。
中里さん
「(空間は)半畳ぐらい。要らなくなったソファ捨てようねって言っていて、捨てなくてよかったんです」
清水アナウンサー
「そこにたまたま置いてあったんですか」
中里さん
「置いてあった(ソファの)上に、タンスが倒れてきたから、それで空間ができた。捨てていたら空間なんかなかった」
中里さんは20時間ぶりに助け出された。避難所で受けた1つの質問が今も忘れられない。
中里さん
「悲しいとかって、みんな無くなってしまったんですからね。避難所にいるときにテレビの方が来られて、『どうですか、これからの生活設計は立てましたか』と聞いてきたときに、『あなた何をおっしゃっているの、人間って住む所が安定してこそ、生活設計が立つでしょ。今住む所も無くて、周りに気を遣いながら生活しているのに、あなたは震災に遭っていないからそんなことをおっしゃるのよ』と言ってしまいました」
個人経営の小さなお店が軒をつらね、活気にあふれていた神戸・長田区の菅原商店街。地震で大きな火災に見舞われ、アーケードの骨組みだけがかろうじて立っていた。
地震からまもなく、化粧品店を再建しようとしていた岸本明美さん。避難所でお客さんから「化粧品を何とかしてほしい」と声を掛けられ、店を再開させると決めた。
キノヤ化粧品店 岸本明美さん
「避難所に行ったら『乾燥して顔が痛い』って言われるんだけど、『化粧品仕入れできないですかね』『サンプル無いですか』って。そしたら『(メーカーが)見繕って持っていきましょう』ってことで。とりあえずテープで化粧水と乳液をくっつけてセットにして、避難所に持って行って。泣いてね、喜ばれる方がいて」
岸本さんの化粧品店は今も(2024年11月)営業を続けていた。いつもお客さんがいる、地元で人気のお店になっていた。
お客さん
「ちょっと太ったでしょ」
岸本さん
「うん、いい感じに。今ぐらいがいい」
菅原商店街は阪神・淡路大震災の象徴のように、メディアで取り上げられてきたが…。
岸本さん
「めっちゃ嫌でした。何が分かるのって。以前を知らないくせに、大変ですねーって」
「たまたまここは焼けたり、被害が大きかったからクローズアップされているけれども、二次災害っていうのか、直接でなくてもそのことで全く仕事が無くなったりとか、全く体が動かなくなったりした人も、焼けた人と同じぐらい大変なんですよ。でもそこって取り上げないところじゃないですか。だからその人たちもまた、こういう(報道された)映像を見ると違うよそこ、と思うと思うし...」
「だから、報道の仕方って難しいんだろうなと思いますけど…本当にかわいそうですよ。だけど、あなたにかわいそうと思われたくない。でも30年きたから話せることやし、30年の積み重ねでこういうふうになったと思うし」
取材を続けながら、どうしても答えが出ないあの場面…
西宮市のマンションの倒壊現場で記者が浴びせられた「カメラ撮るヒマあったら手伝えって!」という言葉。
広島市に住む、加藤りつこさん(76)は46歳のとき、あのマンションに住んでいた大切なひとり息子を失った。
当時、神戸大学法学部2年生だった加藤貴光さん。将来は平和のために国連で働きたいと、夢と希望に満ちあふれた、21歳だった。
加藤さんは地震の翌日、広島から貴光さんが暮らしていたマンションにたどり着いた。
加藤りつこさん
「どなたかわからない男の方が2人寄って来てくださって、『加藤さんですか』って言われたから『はい、そうです』って言ったら、お2人が横にパッと寄り添ってくださって、腕を取って、『奥さん、気を確かに』って言われて...」
「お布団が敷けるような隙間があって、そこに寝かされていたんですよ。信じられなかったですね」
貴光さんが大学生になり、一人暮らしを始めたとき、初めてこの場所を訪れた。
このとき、貴光さんはりつこさんに1枚の手紙をくれた。手紙は縮小コピーをして、今も肌身離さず持っている。
貴光さんの手紙より
「私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること。この20年で私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。そして今、私は、この翼で大空へ飛び立とうとしています。誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で」
貴光さんの手紙は、これまで何度かメディアを通じて伝えられてきた。この手紙が様々な出会いを広げてくれた。
加藤さん
「素晴らしい方と出会ったとき。それはすべて貴光のあの手紙からつながるんですよ。あの手紙を書いた息子さんのお母さん、ということでつながってくるんです。今もずっと、あれから30年間支え続けてくれている手紙なんですね」
清水アナウンサー
「過去の映像も見させていただいたんですね。ここのマンションNが倒れている映像で...。『カメラ回してんと手伝ってくれ』という声があった。りつこさんはどう思いますか」
加藤さん
「当時と今はちょっと違うと思うんですけれどね。当時だったらやっぱり、住人の方と同じような気持ちになったかもしれません。怒りが湧いたかもしれませんけど。今となったら、記録して残すっていうことはものすごく大事なことですね。記録してあるからこそ、今がある。今、この現在をたどれるんですよね。記録が無かったらどうなっただろうって。亡くなった貴光ひとり、個人にしてもそうですね。記録されていたからこそ、もう一度、今生きている人たちにも伝えられるんだって、思えるんです、今は。だから記録することはものすごく大事なことだと思っています」
清水アナウンサー
「やっぱり30年経って、前を向ける部分っていうのは増えてきているんですか」
加藤さん
「色んな視野を広げながらね。今まで学んできたことを、より広く視野を広げながら1年をしっかりと凝縮した1年にしてみたいなという気持ちはありますね。2025年、震災30年の12月20日が誕生日なんです、貴光の」
清水アナウンサー
「私も12月20日生まれです」
加藤さん
「うそっ!」
清水アナウンサー
「1995年の12月20日に生まれたんですよ」
加藤さん
「まあ…麻椰さん。12月20日…」
清水アナウンサー
「受け継いでいかないといけないし、ちゃんと伝えていきたいなと思いました」
加藤さん
「頑張ってね。ほんとに」
清水アナウンサー
「しっかり伝えます」
加藤さん
「伝えてください」
阪神・淡路大震災から30年。2025年も行われた「1.17のつどい」。初めて、追悼の場を伝える生中継にのぞんだ。
清水アナウンサー
「会場では大勢の方が手を合わせています。私は今回、様々な人に話を聞きました。私が最も印象に残った言葉は、『被災者を悲しい人たちにしないでほしい』という言葉です。私たちはこの神戸で30年間暮らしてきて、今も前を向いて生き続けているんだと」
震災の記録を次の世代、未来へとつないでいく。神戸生まれ、震災を知らない…私にできること。