
【絶対王者の転落に観客も呆然】
2月13日(現地時間)、ミラノ。ミラノ・コルティナ五輪のフィギュアスケート男子フリーは終盤に近づくにつれ、何やら不穏な気配が漂っていた。
16番手で佐藤駿が滑ったあと、誰もスコアを越えられない。順番を追うごとに、ジャンプのミスが目立っていた。20番手のミハイル・シャイドロフ(カザフスタン)だけが氷に適応し、200点に迫る得点を叩き出した。
しかし、21番手のダニエル・グラスル(イタリア)は観衆のあと押しを受けるも不調に終わった。22番手のアダム・シャオ・イム・ファ(フランス)に至っては信じられないジャンプミスの連続で、バックフリップだけは意地で決めた。鍵山優真もいつもの演技にはほど遠く、どうにかまとめたものだった。
率直に言って、氷の上は荒れていた。ブレードで削られた氷が飛沫を上げ、選手の顔にかかるほどで、かなりゆるくもなっていた。最終滑走が近づくにつれ、不規則な転び方が増え、難しい条件になっていたはずだ。
そこで最終滑走、ショートプログラム(SP)で1位だった"真打ち"イリア・マリニン(アメリカ)が登場した。
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結果から言えば、マリニンはフリー156.33点という彼にとっては嘘のようなスコアで15位だった。総合は264.49点で8位。金メダルどころか、表彰台も逃した。「4回転の神」と言われるが、天界から見離されたような姿で、会場のざわめきは落胆と憐憫(れんびん)が混ざっていた。絶対王者の転落に、誰もが適切に表現する言葉がなく、呆然とするような演技だった。
【4回転の神も抗えなかった引力】
冒頭、マリニンはそこまで悪かったわけではない。4回転フリップはしっかり降り、GOE(出来ばえ点)も稼ぎ、15.71点のハイスコアだった。次のアクセルがほどけてシングルになったが、高難度の4回転ルッツもやはり15点台後半を叩き出した。
しかし、ここから波に乗れない。4回転ループは2回転、4回転ルッツは転倒し、4回転サルコウは2回転になって転倒。スケート全体がチグハグで、演技構成点の表現・演技力の項目は7点台だった。
「メダル獲得ができるとはまったく思っていなかったです。(マリニンのミスは)珍しいなと思って。今シーズンはミスがなかったので、(要因に)団体と個人のスケジュールもあったのかなと。マリニン選手のおかげで、自分たちもここまでこられたところもある」
佐藤は、自身のメダルと超人マリニンへの思いを重ねて語っていた。マリニンが氷上に立った時点では3位で、表彰台に上がれないことは覚悟していたが、全力を尽くしたうえでの僥倖(ぎょうこう)だった。
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マリニンの大崩れは、ともに戦ってきた選手ほど信じられない現象だった。そのジャンプは神のごとし。たとえ1本、あるいは2本がダメでもリカバリーできるほどの得点力を誇っていた。
「ジャンプのスキルでマリニン選手にかなう人は、下手したら数十年いないと思うくらい。来年以降はマリニン選手が1強になる可能性は高いですね」
2023年のGPシリーズ・NHK杯が終わったあと、宇野昌磨が啓示的に語っていたのを覚えている。
「結局、フィギュアスケートはジャンプを跳ばない限りは得点が上がらないというのがあって。NHK杯でマリニン選手と僕の演技構成点の差は6.10点でしたけど、それはもう"ジャンプお手つき分"くらいなんです。マリニン選手はあれだけジャンプをきれいに跳べるし、一番確率よく跳んでいるので、彼に勝つには同じぐらいのジャンプを跳ばないと......たぶん、今後は勝てる人がいなくなってしまうのが現状だと思います」
その予測は慧眼だったが、勝負は蓋を開けないとわからなかった。そこにフィギュアスケートというスポーツの奥深さがある。わずかな感覚の狂いで総崩れ。何者にも抗えないような引力が働いた時、マリニンのような神でもなす術がない。
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【まるでコントロールできない感覚】
「理由はわかりません」
失意のマリニンは言葉を紡ぎ出す。
「氷の状態も、私が望むものではなかったかもしれませんが......。正直、スタートポジションについた時、今まで経験してきた記憶が押し寄せてきたんです。本当に圧倒されるような気分で、どうすればいいかわかりませんでした。これはオリンピックですから、他の大会とは違います。プレッシャーや緊張感は内側から感じるもので、まるでコントロールできない感覚でした」
あらゆる原因が入り組んでいて、敗因はひとつにくくるべきではない。
たとえば団体戦でSP、フリーのどちらも出場し、アメリカの金メダルに貢献したことも「体力的な消耗につながった」という意見がある。イタリアの団体銅メダルに貢献したマッテオ・リッツォ、ダニエル・グラスルも個人戦はいまひとつだった。鍵山もフリーは本来の演技ではない。
しかし、佐藤は団体の演技を力に変換し、スティーブン・ゴゴレフ(カナダ)は団体でSP、フリーとポイントを稼ぎ、個人も5位と健闘した。どちらにも転ぶのも団体戦だ。
特筆すべきは、マリニンが最大の敗北のなかでこそスーパースターの証を見せた点だろう。
演技直後、マリニンは顔を両手で覆い、カメラから逃げるように首を振っていた。彼自身も現実に目を背けたかったのだろう。後悔か、失望か。「信じられない」と顔を歪めた。
しかし、キス&クライで得点発表を聞いたマリニンは、すぐにライバルの健闘を讃えている。自分が落ち込むよりも、そばに座っていたシャイドロフのところに歩み寄って声をかけ、握手し、抱き締めた。フィギュアスケートはあくまで個人のスポーツだが、限られた空間だからこそ、同志を思い、リスペクトできるかが一流選手の資質である。
「見たか? マリニンは男のなかの男だ。負けて悔しいはずなのに、我らがシャイドロフに敬意を払っていた」
カザフスタンの国旗を持った男性は、そう叫んでいた。五輪の舞台で敗北を認められる精神こそ、真のスポーツマンシップだ。
「敗れざる者」
その肖像を結んだマリニンは、絶対的勝者であるよりもフィギュアスケーターとしての硬骨さを増していた。
