
連載第91回
サッカー観戦7700試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」
現場観戦7700試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。
アメリカとイスラエルとイランの戦闘はサッカー界に大きな影響を与え、イランのW杯参加が懸念されています。今回は後藤氏の約30年前のイラン取材記をお送りします。
【サッカー界に影響】
アメリカのトランプ政権とイスラエルによる一方的な攻撃によって始まった戦闘。軍事施設の多くを破壊されてもイランは徹底抗戦の構えを崩さず、紛争の長期化が懸念され、世界は経済的にも大きな打撃を受けることになった。
サッカー界にもすでに影響が出ている。
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ACLエリート西地区のラウンド16は全試合が延期となり、このまま戦闘が収まらなければ4月に予定されている決勝大会の開催も危ぶまれる。
さらに、イランは6月にアメリカなどで開かれるW杯の出場権を獲得しており、果たして大会に参加できるのかが問題となる。トランプ政権はイランの選手団などにビザを発給するのだろうか? そして、テロ対策の行き過ぎなどがないか大会運営への影響も心配になる。
アメリカやFIFAとしては、イランが棄権(ボイコット)してくれるのを願っているだろうが、イラン側が参加に踏み切れば主催者側はかなり困ったことになる(アメリカとイランが2位通過したら、ラウンド32で激突する)。
さて、僕はこの半世紀ほどの間に89の国と地域を訪れてきた。各国にそれぞれの思い出があるが、なかでも最大の歓待を受けたのがイランでのことだった。したがって、僕にとってイランは"大好きな国"のひとつである。
【1997年6月、イランへ】
それは1997年の6月。フランスW杯アジア一次予選でのことだった。
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僕は、この時の予選は一次予選からアジア大陸を飛び回って、日本以外のグループも観戦していた(拙著『アジア・サッカー戦記』(文藝春秋社)参照)。
6月にはイランとシリアが入った第2組の試合が、ダブルセントラル方式で行なわれた。
まず、シリアの首都ダマスカスで総当たりリーグ戦が行なわれ、アウェーのイランがシリアに勝利して3戦全勝。その後、イランの首都テヘランに舞台を移すことになった。
6月8日の夜、僕もダマスカスからシリアの国営航空(シリア・アラブ航空)でテヘランに向かった。機内ではダマスカス滞在中に仲良くなったシリアのGKベルクダール(高校教諭の彼は英語がかなり話せた)とずっと話していてまったく飽きなかったのだが、出発が遅れたおかげでテヘランのメヘラーバード国際空港に到着した時、時計の針はもう午前2時30分を回っていた。
イランは初めてだったので、入国審査の列に並びながら「こんな時間にタクシーなどあるのだろうか?」と心配していたら、突然名前を呼ばれた。イランサッカー連盟のエナヤット氏。元国際審判員だという。
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シリア選手団を迎えに来たのではない。わざわざ、僕のために空港まで来てくれたのだ。
イランの入国ビザ申請の際、イランサッカー連盟に身元引受を頼むために入国予定を伝えてあったので、わざわざ空港まで(深夜に)迎えに来てくれて、イランご自慢の国産車「ペイカン」でホテルまで送ってくれたのだ。
ダマスカス滞在中には、イラン人記者数人とも顔見知りになっていた。
そんな彼らが、テヘランに着いたら家に招待すると言っており、そのひとりが空港で「どこのホテルだ? 明後日の11時に迎えに行くよ」と言っていた。
到着の翌日は試合があり、そして約束の日になった。
「本当に来るんだろうか?」と、僕は内心疑っていた。これまで僕が出会ったアラブの人たちのなかには時間や約束にルーズな方もいたからだ。
彼らの言い分は「インシャアッラー(神の思し召しのまま)」。つまり、約束が実行できなかったのはアッラーの御心によるもの(だから誰のせいでもない)というわけだ。
だが、僕の経験では、イランの人たち(イランの主要民族であるペルシャ人)は、約束に忠実だった。「11時」と言ったら、時間通りに必ずやってきた。そして、ナセルという記者は彼の妹の嫁ぎ先という瀟洒な住宅に僕を連れていった。
「日本からの客人が来る」というので、親戚一同が集まって歓待してくれたのだ。
【毎日大歓待を受けた】
分厚いペルシャ絨毯の上にご馳走が並んでいる。炊き込みご飯の一種・ポロウを中心に、鶏や羊、野菜など数多くの料理が並んでいて、男女別に分かれて車座になって食事をしながら会話をかわすのだ。
この家の主人のセイドは、数年前まで茨城県那珂湊市の工場に出稼ぎに行っていたので、片言の日本語が話せた。それに、ナセルの片言の英語を通じての会話である。
もちろん、全員がムスリム(イスラム教徒)だからアルコールはいっさい出ない。
だが、彼らは詩のような言葉をやり取りすることによって、まるで酒に酔ったような陶酔状態に入っていくのだ。男女の掛け合いもあって、場がどんどんと盛り上がっていく。それは、まるで日本の酒席と同じようだった。
「言葉の力で酔うことができるなんて、なんとすばらしい文化的な人たちだ」と、僕は思った。
そして、翌日は他の記者がホテルまで迎えにやってきて、「今日は俺の家に来てくれ」とまた宴会。こうして、ほとんど毎日、昼はどこかの家で大歓待を受けた。夕方から試合がある日には、「スタジアムに出発するまで休んでくれ」と言って、立派なベッドのある寝室を使わせてくれた。
もちろん、いいことばかりではない。インターネットはつながりにくかったし、交通法規など存在しないかのような乱暴な自動車の運転。そんなことはどうでもいいが、当時の政治体制は、宗教上の規律を重視するあまり、人権を抑圧していると感じられ、そういう体制は変革していくべきだと僕は思った(この時は、すでに先日アメリカ軍の攻撃で死亡したハメネイ師が最高指導者になっていた)。
しかし、僕がイランに入った直前の5月の大統領選挙では、穏健派のハタミ師が当選したばかりで、統制はかなり緩やかだった。
女性たちはスカーフで髪を隠してはいたが、スカーフは派手なデザインのものばかりで、髪が完全に隠れていなくても平気そうだったし、豪華なアクセサリーを身に着けてお洒落をしている。しかも、ムスリムのはずなのに十字架のデザインやブッダ(仏陀)のデザインのアクセサリーまで売っていた。
僕は、この年の4月にはサウジアラビアにも行って、そこで宗教的な戒律の厳しさを体験していたから(たとえば、レストランにいても、お祈りの時間には食事を中断しなければならない)、それに比べてテヘランはずっと自由なヨーロッパ的な雰囲気だった。
【イランに平和を......】
ナセルはカスピ海沿岸のラシュトという街の出身で、「テヘランとはまったく違う、いいところだ」と言っていたので、ある日、タクシーをチャーターしてカスピ海を見に行った。
テヘランの北に聳えるアルボルズ山脈の3000メートル超の峠を、古いおんぼろタクシーで越えていく。
たしかに、山脈の南は乾燥した台地が広がっているが、カスピ海沿岸は降水量が多く、森に囲まれており、平地には一面に水田が広がっていて稲作が行なわれていた。
8年後の2005年に、オランダでワールドユース選手権(現U−20W杯)があった時のことだ(本田圭祐、水野晃樹、家長昭博などの日本はなんと2分1敗の成績でグループリーグを2位通過=ラウンド16敗退)。スタジアムと駅の間を、ボランティアが運転するミニバスが運行していた。
ある日、その運転をしていた中年女性と世間話をしていたら「私もイランに行ったことがある」という話になって、「イラン人って、本当に素敵な人たちよね」と意気投合した記憶もある。
イランに平和を......
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