
高梨沙羅インタビュー 前編
今年の3月に2025-2026年シーズンすべての日程を終えたスキージャンプの高梨沙羅(クラレ)。このシーズンは、ミラノ・コルティナ五輪の出場枠獲得がかかっていた8月のサマーグランプリ個人9戦から始まり、オリンピックのほかにワールドカップ全35戦中、個人では31戦に出場した。
約8カ月間の長いシーズン、そして自信4度目のオリンピックとなったミラノ・コルティナ五輪をあらためて振り返ってもらった。
【4度目の五輪出場】
――シーズン序盤からいい流れで入り、年末からの中盤戦も4位や5位など一桁の順位で成績を残していました。ミラノ・コルティナ五輪に向けてはどういう意識を持って取り組んでいましたか?
「(シーズン初めから)オリンピックへ向けて走っている感覚はありました。ただオリンピック直前のドイツ・ウィリンゲン大会では12位と10位という成績で、あんまりいい感覚を持てずオリンピックに入る形になってしまい、不安要素を残してしまいました。それでもオリンピックの現地に入ってからは徐々に調子を上げていけたと思っています」
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――そのオリンピックは、微妙な風の変化が頻繁に起こる難しい条件になり、最初の種目となったノーマルヒル個人戦は、圧倒的な強さを誇っていたニカ・プレブツ選手(スロベニア)も勝てないという厳しい試合でした。
「ノーマルヒル個人戦の時もラージヒル個人戦の時もそうなんですが、風が変わるタイミングになってしまう状況が結構ありました。『風をもうちょっと待ってくれたらな』という時があったんですが、『オリンピックだから待ってくれないか』とも思っていました(笑)。
ノーマルヒル個人戦は、13位と結果を残せていないので何とも言えないですが、北京五輪からミラノ・コルティナ五輪までのこの4年間は混合団体のことを考えていたので、そこに向けては技術的にも調整できていたと思います」
【チームで勝ち取った銅メダル】
――やはり4年前の北京五輪のチーム戦1本目失格(スーツの規定違反)は、心に引っかかっていましたか?
「そうですね。そこはずっと考えながらやってきましたが、やはり苦手意識があった種目でもあります。だから、今回も最初に混合団体の選手に選ばれた時は即答できなくて、『もう1日練習があるので、そこで見て判断してください』とコーチに相談させてもらいました。そのあとに『やっぱり沙羅、お願い』と言われて腹をくくり、全力で臨みました。覚悟を決めるというか、振りきったような感じでしたね。『ここで失敗したら、私は終わりだな』と思っていましたが、チームのみんなに支えてもらい、混合団体では風も味方してくれて2本そろえることができました」
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――混合団体の時は、小林陵侑(チームRYO)選手や二階堂蓮選手(日本ビール)が緊張している高梨選手に声をかけるなど、いろいろ気を使ってくれたと話していましたね。
「そうなんです。だから自分の能力以上のものを出せた2本だったと思います。『あの4人、あのチームじゃないと獲ることができなかったメダルだな』と思っています。
それに、チームについてくれていたジャンプスーツの技術者の方が、4年前の北京五輪と変わらず同じ方だったんです。その方が私のジャンプが終わった時に、『沙羅、よくやったね』と声をかけてくれました。
あとでリザルト見ながら、『今日は女子のなかで2本の合計得点が3番目だから、(個人としても)今日は銅メダルだ』と言ってくれた言葉がすごく心に残っていて、彼も(あの失格から)4年間ずっと一緒に戦ってくれていたんだなっていう気持ちにもなりましたし、本当にチームで獲れた銅メダルなんだと思いました。
銅メダルでも私自身、北京五輪から抱えていた心の重みを拭えましたし、本当にたくさんの人の気持ちをすっきりさせられたというか、報われたと思えました」
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後編はこちら>>模索してきた自身とスキージャンプ界の未来
Profile
高梨沙羅(たかなし・さら)
1996年10月8日生まれ。北海道上川郡上川町出身。
中学生のころから世界の舞台で活躍し始めると、女子のW杯が始まった2011-2012シーズンから参戦し、蔵王大会では16歳で初優勝を果たした。W杯の優勝回数は史上最多の63回。世界選手権でも数多くのメダルを獲得。オリンピックには4大会出場し、2018年平昌五輪のノーマルヒル個人で銅メダル、2026年ミラノ・コルティナ五輪の混合団体で銅メダルを獲得している。成績以外でも日本人女子選手の中心に立ち、女子スキージャンプ界を牽引し続けている。

