魔法少女じゃいられない濁っちゃった母さんたちへ捧ぐ、『魔法少女まどか☆マギカ』いまさらレビュー

79

2013年10月01日 10:00  MAMApicks

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

MAMApicks

写真
大変遅ればせながら、ようやく『魔法少女まどか☆マギカ』の通常放送全12話を観た。

『魔法少女まどか☆マギカ』(以下、まどマギ)は、テレビアニメが2011年に深夜アニメとして放送され、表層的な萌えビジュアルに相反した意外かつ理不尽なストーリー展開で、一部のアニメファンにとどまらずに支持を集めて話題となった作品。そして今月26日からは、劇場版第三弾が上映される。



筆者が欧州駐在の頃から、「観るべきだ」「観ろ」「まだ観ていないとは!?」と、あちこちからせっつかれる傍らで、すでに日本国内のみならず、欧米のオタクたちまでもが湧きに湧いているのを見て、空恐ろしいシリーズであることは知っていたのだ。

「フツーの魔法少女ものだと思って見始めたら、第3話で見事に裏切られるから」
「第10話は神回だから」

事前にウワサで聞かされていた通り、第3話でも第10話でもしっかり肌にあわだて、思わず画面の前で正座した。おんなのこたちが大好きそうな魔法少女ものの、それらしく仕立てられた設定に、突如とんでもなくドス黒い主題が流し込まれる。切り取られ永遠にループする、人生で「さも一番美しそうに見えて一番醜い」、闘いと性と狂気の思春期である。

幼体から成体への、あのグッチャグチャの過渡期! 肉体的にも精神的にも「あたし(俺)、おかしいんじゃないか? 変なんじゃないか?」と悩み満載の、親にも先生にも友人にも(リア充のあなたならカレシカノジョにも)、迷いだらけで毎日おかしなことやって口走って、その数年丸ごと黒歴史の、あの思春期だ! それを「それだけ」切り取って閉ざされた世界でループしちゃうんだって? やり直しちゃうんだって? いいや御免こうむるよ、一度で充分だ。謹んでお断りだねっ!

すでに「ソウルジェム」など真っ黒に濁り、魔女として周囲の環境に毒を巻き散らす側の視座からすりゃ、思春期なんてあんなメンドくさいもの、「カーッ、ペッ」だ(唾棄、と言いたい)。あの時代や友人関係をやり直すだなんて、あり得ない。


―― 女なら知っているだろう。
あの後、女友だちはそれぞれ「配置されていたはずの」駒の位置をどんどん移動して、新しい勢力図を作っていったはずだ。暗黙のランキングが、進学とか彼氏とか就職とか転職とか結婚とか出産とか離婚のたびに、カチャカチャと音を立てて入れ替わるのを、見ているはずだ。

「少女」なんてのは、儚くも何ともない。生命力の塊なんだよ。ものすごくね。
その醜さ薄汚さと「威力」を、女は自分で分かっているからこそ、年をとること(少女としての力を手放すこと)に全力で抵抗する人と、解放感を覚える人とに分かれる。
筆者は「年とってラクになった」解放感派だ。もう魔法少女なんかじゃいられない。はいはい少女お断り、魔女バンザイなのである。

だから、これからのおんなのこたちは大変だなぁと思う。

なぜ、まどマギの設定が「おんなのこ」なのか。
それは、戦闘美少女という設定が限りない普遍性を持つからだといわれる。「闘う」「美しい」「少女」。そのすべての点に、老若男女誰もが潜在的に共感できるのだという。親とか学校とか社会とかのリアリティや外傷性を排除し、あくまでも精神的な存在として純化すると、ひとはみな虚構の戦闘美少女になるらしい。

つまり、それは年齢も性別も所属もすべての生臭いディテールを排除した、三人称無性単数 "it" としての少女だ。
おばさん的に言うと、「毛も生えてない」つるつる真っ白の幼体であるその "it" を、キュウべぇは「ぼくと契約して魔法少女になってよ」とそそのかして、性的存在としての魔法少女に押し上げる。

それは、女の子らしい穢れをインストールするということだ。
しかし、悲しいことにまどマギの世界観は、スタートがあってゴールのある直線的な世界ではない。「因果」とか「円環の理」(脚本:虚淵 玄氏の造語)という言葉の使い方に表れているように、穢れをインストールされ無理矢理スタートさせられた魔法少女たちは、穢れたまま、少女時代特有の醜さを携えたまま、決して成長することなく老いることもなく、この閉ざされた機能不全の世界を無限ループするのだ。


さて、こんな感じのコンテンツを消費して育つリアル少女たちは、どうしたらいいのだ。日本では特徴的に、二次元でも三次元でも臭わないベタつかない清潔で軽いペラい少女像がメディアで消費される。

何だか、みんなつるつるぺかぺか可愛くってチェックの制服にニーソとか履いてる。リアル少女たちは、先にも述べた生臭いディテールを限りなく排除した概念 "it" としての虚構の少女性を見せられて、それを虚構と知らずに「少女の教科書」に則って純化したのち、 "it" ではない自らの女性性を前に愕然とする。

生理だってある、セックスだってするし、いずれは出産も育児もする。生理の延長に出産があるなんて想像もしなかったと、妊娠して初めて考える。卵子に寿命があるなんて知らなかったと、卵子が息も絶え絶えとなった頃に思い知る。

妊娠出産がこんなに大変だなんて、子どもがこんなに病気になるなんて、ダンナが使えないなんて、保育所が足りないなんて、教育がジジババが政治が放射能が!

……まどマギ以前の時代に育った母さんたちでさえ、「知らなかった!誰も教えてくれなかった!」の大合唱だ。そしてひと通り大声で歌ったあと、かつての少女は気づきを受容し、状況を受け入れたり、変革を期して働きかけたりしている。

女性性の獲得や気づきで「ソウルジェム」が濁る。成長は濁りなのだ。
濁り上等、やがて私たちは魔女になる。追われ、殲滅される側になる。まどマギが、こんなに深く少女の成長を描いたものだったなんて驚きだね! いや、驚きでも何でもないのだ。だって、普遍的な "it" の物語なのだから。少年たちだって、オッサンオバハンだって、日本人に限らず外国人だって、自分を "it" になぞらえて感情移入し、ここから自分なりの物語を読み出すのである。


時々、世の中のすべてが憎くてしょうがないんだね?という目をしている疲れ切った若い母親を見ることがある。
私も昔、同じ目をしていた。不機嫌という大正義のナタを振り回し、誰かはきっとどこかで教えてくれていたはずなのに、「誰も教えてくれなかった」と勝手に裏切られた絶望を大声で周囲に轟かせているようなものだった。いやもう、精神的には私史上「不幸のズンドコ(笑)」でしたよ、他からどう見えようとも、個人的に。

まどマギで、「絶対に倒さなければいけない最優先課題のミッション」である、「ワルプルギスの夜」。しかしそれがいかに強大であるか凶悪であるかについての詳細は、まったく言及されない。「そんなディテールはどうでもいいから、とにかく乗り越えられない壁」であること以外に存在理由がない。

そんな、「とにかく乗り越えられない」強大で凶悪な「ワルプルギスの夜」は、本当は私たち自身なのかもしれない。世の中のすべてが憎くて仕方のない「暗黒」、それが明けたなら、そこには何があるだろう。あのとき私たちにインストールされた「穢れ」が長いときを経て晴れるのだろうか。それとも、もっと黒々と光のない世界が終わりなく広がるだけなのだろうか。

「ワルプルギスの夜」の向こう側に何を見るか、それは私たちのこれまでの濁りっぷりと、これからの魔女っぷりにかかっているのかもしれない。

河崎環
コラムニスト。子育て系人気サイト運営・執筆後、教育・家族問題、父親の育児参加、世界の子育て文化から商品デザイン・書籍評論まで多彩な執筆を続けており、エッセイや子育て相談にも定評がある。家族とともに欧州2ヵ国の駐在経験。

このニュースに関するつぶやき

  • なんか、すっげぇ「無理矢理」感が読んでてしんどい。我田引水と言うか、自分の土俵に引きずり込んで満足しているように見えます。半世紀以上生きてきたオジサンから言わせれば。
    • イイネ!0
    • コメント 1件

つぶやき一覧へ(22件)

オススメゲーム

ニュース設定