エマノンが戻ってきた。SF美女総選挙なんて企画をすれば上位入賞はまちがいない名キャラクターだ。まあ、登場人物を抜きだして人気を競うなどしょせん戯れごとだが、しかしエマノンは彼女の存在性が世界のなりたちと深く結びついており、一介のヒロインたちと同列に較べられない。
地球生命の発生以来の記憶を持つづけ、ひとつの種が絶滅するときにはその最期に立ち会う----この役まわりは地母神の色合いを帯びている。そのいっぽうで、エマノンは死ぬことのできない永遠の放浪者でもある。地母神の生命感と放浪者の孤独。慈愛と無垢。この両義性は、1979年発表の第一作「おもいでエマノン」以来の各話で、さまざまな様相としてあらわれてきた。
『うたかたエマノン』はこのシリーズ初の長篇で、19世紀末、カリブ海のマルティニーク島が舞台だ。アフリカから奴隷として連れてこられた祖父を持つ混血の少年ジャン・ジャックは、エマノンの笑顔に優しかった亡母の面影を重ねあわせる。フランスから流れてきた貧乏画家ポール・ゴーギャンは、どの人種とも特定できないエマノンの風貌に創作意欲を掻きたてられる。世界を見てまわっているジャーナリスト、ラフカディオ・ハーンはエマノンが語る不思議な話に魅了される。傭兵あがりの世捨て人ギョーム爺さんは、健康的な好色さをもってエマノンを歓迎する。エマノンはつねに変わらぬひとりだが、それに関わる人間ひとりひとりに特別な印象を残すのである。
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《エマノン》シリーズは一期一会のふれあいに風情があるのだが、本作品の登場人物のうち、かくしゃくたるギョーム爺さんだけは40年前にもエマノンと出会っている。マルティニーク島の北部にそびえる霊峰ペレー山に登る彼女を、爺さんがガイドしたのだという。ところがエマノン自身には、そのときの記憶がない。
記憶の欠落。これは《エマノン》シリーズ全篇を通してみても、きわめて特異な事態だ。途切れなく30億年におよぶエマノンの記憶に、わずかなりとも空白が生じている。この空白をさぐるためにエマノンはマルティニーク島を再訪したのだ。謎のカギが潜むと目されるペレー山へ踏みいる彼女をジャン、ゴーギャン、ハーンが随伴する。ガイド役は前回とおなじくギョーム爺さんだ。
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それにしてもこの爺さん、いったい何歳なのか。ペレー山は地元では聖なる山と崇められているが、ときおり山中に「悪火」と呼ばれる謎の光が遠望され、ゾンビが潜むとの噂もある。まさか、ギョーム爺さんはそのゾンビの仲間か? いや、それにしてはむやみに活きがいい。
じつは、エマノンの失われた記憶と併せ、この物語のもうひとつの焦点となるのがゾンビの正体なのだ。ゾンビといっても現代のホラー小説・映画にみるような定型化したそれではない。マルティニーク島のひとびとにとってゾンビは得体の知れぬ怪異の総称だ。生ける屍者のゾンビもあれば、獣の姿をしたゾンビもあるし、生きものではなく光や闇の現象を示すこともある。ジャンの母は「夜、騒ぐのはゾンビなんだ。夜に、でっかい馬よりもでっかい犬とあったら、それはゾンビなんだよ。ゾンビというのは、こういうものだと一口では言えないものなんだ」と言っていた。この島では、超自然的な悪意は日常なのだ。
ジグソーパズルよろしく、物語の進行にともなってピースが揃ってくる。40年前のエマノンは蔓を編んでつくった大きな籠を携えていた。なかには生きものがごそごそ動きまわっており、どうやらその籠は南米から運んできたらしい。いっぽう、ペレー山を登り進む一行のあとを何者かがつけてきている気配がある。一瞬だが見えたその姿は、衣服をまとっていなかった。しかし蛇や毒虫がうごめき、皮膚をかぶれさせる植物が繁茂するなかを裸で行動する者とは何か。
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秘境冒険小説ばりの緊迫したシチュエーションだが、ジャンの溌剌としたようす、ゴーギャンとハーンの微妙に噛みあわないかけあい、ギョーム爺さんの磊落さ、そしてエマノンの泰然自若ぶりのおかげで、どことなく気楽なムードすら漂う。エンターテインメントとしてはもうちょっとスパイスが利いていてもよいのではとも思うが、最後まで読むとその印象がくつがえる。この道中は作品題名に示された「うたかた」であって、読者はやがて言い尽くせぬ無常観へ逢着する。それはエマノンの記憶の空白の秘密でもあり、また一緒に旅した仲間たちの将来にある運命でもある。
(牧眞司)
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